「裏切り」のひそかな愉しみ

   ――木下順二訳『マクベス』を読むために

     御輿 哲也

 

   “Traduttore, traditore”(「翻訳者は裏切り者」)というイタリア語

  のフレーズは、一度耳にしたら忘れられないほどのインパクトをも

  っています。たとえば、少しでも翻訳作業に手を染めたことのある

  人であれば、この軽やかで楽しげでさえある言葉の響きと、それが

  意味する深刻で救いようのない真実との間の、過酷なまでのギャッ

  プに眩暈を覚えずにはいられないはずだからです。いや、大げさな

  話をしているつもりはありません。論より証拠に、これを英語に変

  えて“ Translator, traitor “ と言ってみても、あるいはちょっと言葉

  遊びを入れて「翻訳者は叛逆者」などと言い換えてみても、イタリ

  ア語本来のどこかユーモラスでリズミカルな響きには、手が届きそ

  うにはありません。つまり、こんな短い文句でさえ、その微妙なニ

  ュアンスを正確に「翻訳」することが至難の業であるのなら、「異

  文化交流」だの「他者理解」だのといった言葉を、さも当たり前の

  ように軽々に口にするのは慎まなければ、という気分にもなろうと

  いうものです。

   はやい話が、前に取り上げた『井上陽水英訳詞集』にしても労作

  でありつつ、いろいろ無理を感じさせる部分もありました。しかし、

  それでもやはり「翻訳」など無力で無意味だと決めつけてしまうの

  は、いささか無謀と言うべきでしょう。むしろ大切なのは、翻訳作

  業につきものの「ズレ」や「片寄り」や「歪み」―― つまりは「裏

  切り」を十分自覚した上で、できることなら有意義で建設的な「裏

  切り」を目指してみることであるはずです。原文の奥に隠れた意味

  を探りあてたり、異質なリズムで違う印象を醸し出したり、新しい

  イメージのひろがりを示唆したり、というような・・・。そんなこと

  は、ただの理想論にすぎないと一蹴されてしまいそうですが、た

  とえば表題に掲げた木下順二氏の『マクベス』訳(岩波文庫、19

  97)は、そうした実践の稀有な実例だと言えるように思います。

       *       *

   Macbeth のなかで、何よりも中心的な意味をもつ台詞が、開幕

  早々に魔女たちが唱える呪文の “Fair is foul, foul is fair” であるこ

  とに異論はないでしょう。” To be, or not to be”と同様に恐ろしい

  までに簡潔なこの言葉は、だからこそ訳しにくく、「良いは悪い」、

  「正しいは間違い」などといろいろ工夫しても、どうにもしっくり

  来ません。過去の例をみると「きれいは穢ない」(福田恆存訳)、「晴

  れ晴れしいなら、禍々しい」(安西徹雄訳)などと苦心の跡は十分

  窺えるのですが、やはりどうも・・・といった感じです。では木下

  訳はといえば、「輝く光は深い闇よ、深い闇は輝く光よ」となって

  いて、確かにこなれた訳だと感じる一方で、かなり冗長で間延びし

  た印象があり、これも結局は原文の歯切れのよさを「裏切っている」

 と言わざるを得ません。けれども、氏はそんなことは承知の上で、

 あえて強引に「光」と「闇」のモチーフを持ち込もうとしているよ

 うで、それは恐らくこの僅か三十数行後に初めて登場するマクベス

  自身の台詞――”So foul and fair a day I have not seen”との関係へ

  の配慮があるからと思われます。この台詞は、どうかすると、すで

  にマクベスが魔女たちの呪文の世界に捕らわれているかのように

  も感じさせますが、木下氏は、この奇妙な繰り返しとも映る台詞に

  ついては、特に訳出に工夫が求められるだろうと言います。

 

       最初の魔女の「フェア・イズ・ファウル・・・」とマクベス

           のこの最初のせりふとの関係、これを意識して訳している人

           が、十何人これまで『マクベス』を訳しているなかで、ほん

           の二、三人しかいないのが非常に不思議です。・・・ただし、

           それは魔女がいった言葉を、マクベスがここでいったという

           ふうにはっきり印象づけられると、

       逆にまずいだろうと思う。・・・魔女がいった言葉は、お客

           は忘れていていいのです。・・・どこかで聞いたことがある

           なという程度に・・・何となくぼやっとお客が発見すべきこ

           となのです。(岩波文庫の解説「『マクベス』を読む」より)

 

     「何となくぼやっと」というよりは、もう少し鮮明に印象づけられ

    る気もしますが、木下氏が主張したいのは、” foul is fair” と“ foul

    and fair” の違いは微妙であっても無視できないはずで、少なくと

    も両者にまったく同じ訳語をあてがうことは望ましくないという

    ことなのでしょう。つまり、まだこの段階では、魔女とマクベスの

    間には越えがたい距離があって、それにもかかわらず、これから信

    じがたいほど急速に、マクベスの意識が魔女の呪文に絡めとられて

    いくプロセスこそが見どころだという捉え方なのだと思います。確

    かに、一見何でもない台詞が、途方もない奈落への滑落をひそかに

    準備しているさまには、身の毛のよだつような恐怖が感じられます。

     それでは、木下氏はこのマクベスの最初の台詞をどのように訳し

    ているかと言えば、「闇になったと思うと輝く光がさしそめる。初

    めてだぞおれは、こういう日は」となっています。この訳し方は少々

    意外なことに、魔女の言葉の訳以上に一層「間延び」しているよう

    で、どこか妙にのどかで悠長にさえ感じるのですが、恐らくここで

    はその「悠長さ」が大事なのでしょう。言い換えれば、マクベスが

    少なくとも最初のころは栄達の夢に溺れたり、権力の幻想に取り憑

    かれたりするような野心家ではなかったという点が、巧みに強調さ

    れているのだと言えます。そして、さらに重要なのは、この「光」

    と「闇」の混交のモチーフが、さまざまな劇的展開をくぐり抜けた

    後、一時はあれほど意気盛んだった夫人の突然の死を知らされた直

    後、今や尾羽打ち枯らしたようなマクベスの有名な独白のなかに、

    再度きわめて印象的なかたちで用いられていることだと思います。

 

       Tomorrow, and, tomorrow, and tomorrow,

         Creeps in this petty pace from day to day

         To the last syllable of recorded time;

         And all our yesterdays have lighted fools

         The way to dusty death. Out, out, brief candle!

         Life’s but a walking shadow・・・  (Ⅴ. 5, ll. 19~24

 

 

      明日、また明日、また明日と、小刻みに一日一日が過ぎ去って

        行き、

      定められた時の最後の一行にたどりつく。

      きのうという日々はいつも馬鹿者どもに

      塵泥の死への道を照らして来ただけだ。

      消えろ、消えろ、束の間のともし火!

      人生はただ影法師の歩みだ。     (下線は引用者)

 

       ここで興味深いのは、人生ないしは人間の生命が「ともし火」とい

    う光と、ほぼ同時に「影法師」にも例えられていることで、本来は

    対立するはずの「光」と「影」の差異がぼやけて見えにくくなり始

    めていることです。と言うよりも、この時点でマクベスは、自らの

    意識の錯乱のさなかにあって、両者を区別する意味を見失っている

    と言うべきなのかもしれません。ただ、それは錯乱のもたらした認

    識の空回りと見える反面、一方ではようやく彼の脳裏をよぎるに至

    った得がたい洞察とも言えそうです。そもそもシェイクスピアの作

    品では、錯乱や狂気が常人には手の届かない卓見をもたらすことが、

    決して稀れではないのを想い起すべきでしょう。

  ここに至るまでのマクベスは、魔女たちの予言に唆されるまま、

いわば「光」に憧れ、「光」ばかりを追い求めていくうちに、「光」

の傍らに絶えず寄り添っているはずの「影」を見落とし、あるいは

無意識に目をそむけていたのではないでしょうか。振り返れば、魔

女たちの言葉は最初から光と闇とは不可分にして一体のものであ

ることをほのめかしていたはずです。ただ、不透明で謎めいた「ほ

のめかし」のレベルの台詞を、最初の段階から「光は闇だ」という

露骨な訳に変えた木下氏は、ある意味で原文を「裏切る」ことで、

いわば読者や観客に早々に種明かしをしているのだと言えるのか

もしれません。それは、むろん周到で意図的な操作だったに違いな

く、「輝く光は深い闇」といった勇み足とも映る訳行は、最後まで

狼狽し自己を見失うばかりのマクベスの姿を、「憫笑する」とまで

はゆかずとも、多かれ少なかれ突き放した目で眺めるための足場を

提供することになります。もとより、主人公への共感や思い入れの

みが、悲劇を成り立たせるわけではないのですから。

       話は少し横にそれますが、そもそも「光」と「影」とはそれほど

    鮮やかに峻別できるものでしょうか?特に、日本人的な感覚では、

    両者の境界線はもともと曖昧でおぼろげなものだと見られている

    のではないでしょうか。何も『陰翳礼讃』などを引き合いに出すま

    でもなく、障子越しにさす光はいつも何ほどか影を帯びているでし

    ょうし、名月をめでる風習は、光と影の重なりに対する繊細な感性

    にこそ支えられているものでしょう。「月影」なり「面影」なりが

    意味するものは、確かな実体なのか、うつろな幻なのか、「火影」

    とは、ゆらめく炎と影の微妙に融け合う姿をこそ表すものではない

    のか。例を挙げだせば、まさに枚挙に遑がありません。いまさらの

    ように「光」が消えたと言って騒ぎ立てる王の姿に、われわれが本

    当に共感するのは実はかなり困難であるはずだということまで、木

    下訳は巧妙かつ辛辣に暴いてみせているように思えます。

 

      いや、そうは言っても、ここで木下氏がことさら日本的感性を前

    面に押し立てて解釈しようとしている、などと言うつもりはありま

    せん。それに、こうした解釈こそが間違いなく的を射たもので、議

    論の余地なく正しいものなのだ、と言い募るわけでもありません。

    なにしろ最初から魔女たちも言うとおり、「正しいは間違い、間違

    いは正しい」と言うべきなのでしょうから。