コンスタブルと詩と自然

     河崎良二

 

     テート美術館所蔵「コンスタブル展」が東京の三菱一号館美術

 館で5月末まで開かれた。日本での本格的な展覧会は30年ぶりだ

 という。私がコンスタブルについて2つのエッセイ(『透明な時間』

 所収)を書いたのは1997年で、それ以来コンスタブル(1776-1837

 の作品を直に見ていないので是非見に行きたかった。しかし東京

 も私の住む西宮もコロナ感染者の数が増え続け、緊急事態宣言が

 5月末まで延長されたので、諦めて図録を取り寄せた。

     1993年にロンドン大学で一年間の研修の機会を与えられた時、

    コンスタブルが住んでいたハムステッドに住もうと、その西側に

    あるゴールダーズ・グリーンの下宿を選んだ。コンスタブルはハ

    ムステッドの丘で雲の研究をし、100枚の雲のスケッチを描いたと

    言われているが、今回の展覧会にはハムステッドを描いた作品が

     7つ出品されていた。その1つ、版画《ヒースの野》の解説に美

    術史家のアン・ライルスは次のように書いている。

    ハムステッド・ヒースは、コンスタブルが愛着を抱いていた

    中でも特別な場所であった。(略)画家は当初、日没の情景を

    描こうとして、ハムステッド・ヒースの西側の端にこだわっ

    ていたが、徐々にこの位置、つまりブランチ・ヒル池の近く

    からハロウに向かって西方向を眺めた景色が、ハムステッド

    の主題の中で画家のお気に入りのひとつとなり、収集家の間

    でも特に人気を博すようになった。

    ゴールダーズ・グリーンは正にヒースの西側であり、ブランチ・

 ヒルからハロウを眺めた絵では右手の丘の向こう側である。

      図録を何度も眺めたが、驚いたのはストゥーア川に架かる橋か

    らコンスタブル家の製粉所を描いた有名な《フラットフォードの

    製粉所》の制作に透写図を用いていたことである。透写図とはガ

    ラス版に筆と印刷用インキで風景の輪郭をなぞり、最後にガラス

    板に紙を載せ、鉛筆でその輪郭線を写す方法である。素人ならと

    もかく、ロイヤル・アカデミー美術学校で絵を学び、アカデミー

    年次展に出品していたコンスタブルが、故郷イースト・バーゴル

    ト近くの見慣れた風景を描くのに透写図を使ったのは不思議なこ

    とである。「研究者が知ったのは、比較的最近のことである」と書

    かれているので、美術史家にとっても驚きだったのだろう。

    《フラットフォードの製粉所》を描いた1816年はコンスタブル

にとって悲しみと喜びを相前後して味わった大きな節目の年だっ

た。1809年に33歳のコンスタブルは海事裁判所の事務弁護士の娘

で、イースト・バーゴルトの教区牧師ラッドの孫、21歳のマライ

ア・ビックネルに恋し、結婚を申し込んだ。当時コンスタブルは

故郷で肖像画や風景画を描いて暮していた。画家として十分な収

入を得る見込みが立っていなかったので、マライアの祖父ラッド

が結婚に強く反対した。それが18165月に父が亡くなり、遺産

を相続したことで変わった。経済的に自立できるようになったコ

ンスタブルはその年の10月にマライアと結婚し、故郷を離れてロ

ンドンに住むことになる。《フラットフォードの製粉所》は40

のコンスタブルが故郷を離れる直前の夏に描いた作品である。透

写図を使ったのは、故郷の風景をあるがままに描いておきたいと

いう思いからだろう。しかし、縦101.6x横127.0cmの大きな油彩

画を、光の具合が同じ時間を選んで制作するには長い時間が必要

であった。後にはモネなど印象派の画家がいるが、コンスタブル

の時代にはスケッチをして、それをアトリエで完成する画家がほ

とんどだった。しかし、それだけのエネルギーを注いだ結果、作

品は「コンスタブルが最も厳密に描写した、最も写実的な絵画の

ひとつ」となった、とアン・ライルスは書いている。

   画面右上から降り注ぐ夏の太陽を浴びて、右手前の楡の木の葉

の一枚一枚が輝き、芝生や野の花、草までが生き生きしている。

画面の奥から微かに風が吹いているのだろう、川沿いの背の高い

ポプラの木や手前の大きな楡の木が葉を揺らしている。画面左上

の空には微かに青や灰色を帯びた雲があるが、中央から右には陽

を浴びた白い雲が広がっていて、開放的な気分を盛り上げている。

白い雲を映すストゥーア川、馬に跨ってロープで船を引く男の子、

農夫や鳥がいる黄緑色の草地、それを囲む木々を見ていると、実

にのどかである。しかし、ただのどかであるだけでなく、陽を浴び

た自然には力が漲っていて、見ているだけで元気になる。

これは全く素人の感想だが、西洋絵画の専門家から見ると、こ

の絵には欠陥があると言う。図録に掲載された論文「コンスタブ

ルの空―独自性にいたる契機」で、加藤明子・三菱一号館美術館

学芸員は「雲が、地上に影を落としていない。空からの光が大地

に射し込んでおらず、空模様と緑地の陰影の関係も不明確である」。

その原因は、透写図の空の部分が描かれていないように、「本作品

の制作過程において、大地と空の部分が別々に手がけられたこと」

にある。「空と大地の融合に成功する」のはハムステッドの丘で「空

の習作群を手がけ」た4年後の1821年の《干し草車》である、と

述べている。早速、絵を見直してみた。確かに、空と大地の関係

はハムステッド以降の作品ほど調和していない。さすがに専門家

の目は違うな、と感心した。

    しかし、透写図に描かれていないのは空だけではない。荷船か

 ら棹差す男も、馬に跨った男の子も、釣竿を持っている男の子も、

 後で描かれたものである。アトリエで子供たちの姿を付け加えな

 がら、コンスタブルは川辺で過ごした少年時代を思い出していた

 だろう。画面中央の奥に描かれた父親の製粉所を描きながら、亡

 くなった父のことを思い出していただろう。コンスタブルの風景

 画の魅力は自然が見せる一瞬の情景をありのままに捉えながら、

 そこに細やかな情感を描いていることである。この絵を見る人は

 子どもたちの姿から、自分の幼い頃を思い出すに違いない。

    コンスタブルがこの、彼独自の表現方法を確立するには長い時

 間が必要だった。1799年、23歳でロイヤル・アカデミー美術学校

 の見習い生として入学してから3年後、コンスタブルはロンドン

 での生活を止めて故郷に帰り、慣れ親しんだ風景を描いた。それ

 から8年後の1810年、彼はアカデミー年次展に《教会の入口、イ

 ースト・バーゴルト》を出品した。加藤氏は先の論文で、空は全

 く平板で、「『題材の背後に垂れかけられた白い布のように』空を

 描写せよ、というロイヤル・アカデミーの教えから、まだ抜け出

 ていないように思われる」と述べている。しかし、その2年後の

 夏にマライアに送った手紙で、彼は「私が自然を見る技』(それ

 こそレノルズが絵画と呼ぶものだが)において上達したのか」、「あ

 るいは『自然』が気難しい態度をゆるめてヴェールを取り、私に

 その美を見せてくれたのか」と書いた。彼はどのようにして「自

 然を見る技」を身に着けたのだろう。素人の暴論だが、私には、

 コンスタブルはイギリスの自然や田舎の生活を詠んだ詩人たちの

 詩を読むことによってその「技」を磨いたように思える。

       自然を詠んだ詩人ワーズワースも読んでいたが、Michael

    RosenthalConstable: The Painter and his Landscape (Yale UP

    1983)で、コンスタブルが最も好んだ詩としてWilliam Cowper

    The TaskRobert BloomfieldThe Farmer’s Boyを挙げ、次に

    James ThomsonThe SeasonsThomas GrayElegyGoldsmith

    のThe Deserted Villageを挙げている。これらは静かで、質素な

    田舎の生活を理想として描いた詩であり、過ぎ去った昔を回想し

    た詩である。コンスタブルはそれらの詩を展覧会のカタログに使

    った。また、ストーク・ポージス教会も含めて、グレイの『哀歌』

    の挿絵を油彩画に描いた。今回の展覧会には同郷の詩人ブルーム

    フィールドの詩『農夫の少年』を描いた《雲の習作―ロバート・

    ブルームフィールドの詩とともに》が出ている。

    コンスタブルはよく詩を読んでいた。詩に書かれた静かで、質

素な田舎の生活は理想であり、生活する上での指針であった。コ

ンスタブルとマライアは結婚が叶うまでの7年間に互いにたくさ

んの手紙を書いた。ローゼンソールによると、コンスタブルはマ

ライアへの手紙にしばしばトムソンやクーパーの詩を、言葉を少

し変えて引用した。例えば、トムソンの詩『四季』「春」の「娯楽」

を「愚行」に変えて、「私たちにとってこの世の栄華、愚行、そし

てつまらない全てのことが何だというのでしょう」と書いた。「結

婚した時、マライアが直面する貧困の恐怖を追い払おうとしたの

だ」とローゼンソールは述べている。コンスタブルもマライアも

トムソンの詩を愛誦していたのだ。トムソンは先の引用の続きに、

幸福な夫婦の生活とは「品を保てる資産、満足/隠遁、田舎の静

けさ、友情、書物/気楽さ、そしてそれらと交互に行う労働」で

あると書いている。貧しかったために結婚を延ばさねばならなか

ったコンスタブルを支えていたのは、トムソンやグレイなどの詩

だったのではないだろうか。

   現実の生活において詩が重要であったように、コンスタブルに

とって詩は絵の制作においても大きな意味を持っていた。コンス

タブルは1801年にチャッツワースでフランス古典主義美術の巨匠

Nicolas Poussinの《アルカディアにさえ死がある(Et in Arcadia

Ego)》を見た。理想的な牧歌的世界の喪失を描いたこの絵を見て、

コンスタブルはグレイの『哀歌』やゴールドスミスの『荒廃した

村』を思い出しただろう。それを意識して描いたためかどうか分

からないが、1802年にアカデミー年次展に初めて出品した《風景》

は売れなかった。これはJonathan ClarksonConstable (Phaidon

Press, 2010)に書いていることだが、理想的なものを描くように

という初代会長ジョシュア・レノルズの教えを守っていた年下の

画学生たちの作品は売れた。コンスタブルはその時、「私がどこに

いるか、他の人ができないものは何かが分かった」と友人への手

紙に書いた。この年、コンスタブルはウィンザー近くの王立陸軍

士官学校のデッサンの教師の試験を受け、合格した。教師になる

べきかどうか迷った彼は第二代会長Benjamin Westに相談に行っ

た。ウェストは、もしその職に就けば、画家としての名声は諦め

ねばならない、と言った。3年後の1805年、コンスタブルの絵の

一枚がアカデミー年次展への出品を断られた時、ウェストは「光

と影は決して止まってはいないんだよ」と忠告した。コンスタブ

ルは後に、それは「風景画における最高の教えだった」と述べて

いる。この時からコンスタブルは一瞬のうちに変化する光と影と

自然の研究に集中的に取り組むようになったのではないか。

      このように考えると、「空は全く平板」と評された1810年制作

    の《教会の入口、イースト・バーゴルト》が全く別の意味を持っ

    てくる。夕陽が教会の入口にある日時計を照らしている。前の墓

    地には若い娘と年配の女性、一人の老人男性が墓に腰掛けて話し

    ている。解説には「日時計に付されたメッセージ―そのラテン語

    の格言(Ut umbra sic vita)は「人生は影にすぎない」を意味する

    ―は、時の移ろいを思い起こさせる役割を果たしている」とある。

    ローゼンソールが、コンスタブルはイースト・バーゴルトとスト

    ーク・ポージスを同一している、と述べているように、この絵は

    グレイの『哀歌』を描こうとしたものだろう。確かに空は平板で

    ある。しかし、この絵は、コンスタブルにおいて詩と絵画が密接

    に結びついていることを教えてくれる。

 

    その2年後の1812年、コンスタブルはマライアに「自然を見る

技」において上達した、と書いた。それから4年後の夏、コンス

タブルは結婚前に、アカデミー展のために《フラットフォードの

製粉所》を描いていた。結婚までに完成させたかったが、できそ

うになかった。そこでコンスタブルはマライアに手紙で、結婚を

遅らせてもらえないかと書いた。マライアからは激しい怒りと失

望の手紙が返って来た。マライアの手紙はほとんど残っているの

だが、その手紙は破り捨てられたらしい。しかし、コンスタブル

が急いで書いた無礼を詫びる丁重な返事から、マライアがどれほ

ど怒っていたかが分かる。7年も待ち続けた結婚を延ばしてほし

いと頼むほど、コンスタブルは絵に夢中になっていた。描きなが

ら、コンスタブルは自然が見せてくれる美を今まさに手に掴んで

いるという感覚に驚喜していたのだろう。《フラットフォードの製

粉所》が生き生きした作品なのはそのためである。