木下順二の『風浪』と熊本洋学校教師ジェーンズ

   河崎良二

 

 

  阪田寛夫の『花陵』は、日本のプロテスタント教会の大きな流

れを形成する熊本バンドの一人で、阪田の両親に洗礼を施した大

阪教会の牧師宮川経輝を描いた小説である。『花陵』を読みなが

ら驚いたことがいくつかあるのだが、最も驚いたのは、『夕鶴』

や『子午線の祀り』などで知られる劇作家木下順二がキリスト教

徒であると知ったこと、さらに木下に、熊本バンドが結成された

明治初期の熊本に生きた青年たちを描いた戯曲『風浪』があると

知ったことである。早速『風浪』を読み、熊本バンドやキリスト

教に関する木下のエッセイをいくつか読んだ。木下は県立熊本中

学時代に受洗し、第五高等学校ではキリスト教青年会に入り、東

京大学に進むと東京大学学生基督教青年会館に入り、その年の夏

にアメリカで開かれた世界基督教学生連盟太平洋会議に参加し

ていた。木下の劇からキリスト教というものを感じたことがなか

ったので、何だか狐につままれた感じである。

      『風浪』は明治初期の熊本において生き方を模索する士族の青

年を描いた劇である。維新後の日本は天皇制の復活と近代化とい

う矛盾を抱えていたが、とりわけ薩長土肥を中心とした維新への

動きに乗り遅れた熊本には、士族の青年を悩ませる特異な状況が

生じていた。熊本の政権は長く佐幕攘夷の学校党が握っていたが、

富国強兵、殖産興業を進める明治新政府の方針について行けず、

1870 (明治3)年 5月知事細川韶邦が隠居し、弟護久が知事とな

った。前年に京都で暗殺されたが、実学党の中心人物であった横

井小楠の影響を受けていた細川護久は、実学党の徳富一敬、竹崎

律次郎らを登用して開化政策を採った。彼らは師横井小楠の教え、

「堯舜孔子の道を明らかにし、西洋器械の術を盡し、以て大義を

四海に布かん」を実践に移し、1871 年、熊本洋学校と西洋医学

所を創設した。しかし、実学党の改革は熊本城の解体、藩校時習

館の廃校、民選議員や戸長公選の実施など、あまりにも時代に先

んじるものだったので、1873 年 5月に、新政府から大久保利通

の腹心、安岡良亮が権令(県知事)として着任し、わずか3年で

政権の座を追われた。熊本洋学校は細川護久の個人的な支援で続

いたが、年後の 1876 年 1月に生徒35名がキリスト教奉教事件

を起こし、月に廃校となった。切支丹禁制の高札が撤去された

のは1873年で、熊本には奉教が事件となるほどキリスト教に対

する偏見が強かった。洋学校廃校の2か月後の10月には、新政

府が同年3月に打ち出した廃刀令に反対する神風連(敬神党)の

乱が起き、翌年の西南の役では、士族や農民が政府側の鎮台兵と

なって戦った。このように明治初期の熊本には中道、左派、右派

が反目し合い、殺伐とした雰囲気が町を覆っていた。

       1871年に開設された熊本洋学校に34歳で赴任したジェーン

   ズは、南北戦争に従軍した陸軍大尉で、全寮制の洋学校には、自

   らが卒業したウェストポイント陸軍士官学校の規則を採用し、夏

   は朝5時、冬は朝6時から夜10時の消灯まで厳しい規則を守ら

   せた。授業は最初から全て英語で、英単語の発音から始まり、リ

   ーダー、地理、歴史、数学、物理など4年間の授業の全てをジェ

   ーンズが一人で教えた。ジェーンズは5年間にわずか2日の休暇

   を取っただけで、全身全霊をかけて教育した。新しい知識を身に

   付け、国家に奉仕できる人間になろうという高い志を持った生徒

   たちだったが、厳しい授業に耐えて卒業できたのは、第一回入学

   生が46人中11人、第二回入学生が72人中11人だった。

       ジェーンズの教育観は1874年、学年末の祝宴で行った講演に

   表れている。ノートヘルファー著『アメリカのサムライ』による

   と、ジェーンズは「現在は『教育革命』のただなかにある」と持

   論を述べ、蒸気船、鉄道、電気などの「開花された精神の所産は、

   開化した精神の力と結びあって、学習の成果を誇っている」と述

   べた後、国民の真の富とは何か、と問いかけた。国富とは土地の

   豊かさ、天然資源、人口の多寡だという考えを否定して、それは

    「『人民の知性と美徳』に存すると強調した」。「美徳なき富とは

   呪いでなくてなんでありましょう」。「権力とは、英知なきとき、

   邪悪以外のなんでありましょう」と、現在の私たちをも鼓舞する

   論を展開した。ジェーンズはアメリカの進歩主義的思想、自由、

   個人主義を信じ、信念と情熱を持って封建制度から抜け出ようと

   していた青年たちを啓蒙した。

   開学2年目に入学した宮川経輝は初めてジェーンズに出会っ

   た頃、「まだ教えも聞かぬうちにまるで『活きた(もの)云う理想が』

   手足をつけて動き歩いているのに打たれ、忽ち感化によって俘虜(とりこ)

   にされてしまった」と述べている。生徒たちが先生のようになる

   にはどうすればいいのかと尋ねた時、ジェーンズは聖書を読むよ

   うに勧めた。こうしてジェーンズの家で聖書講読が行われるよう

   になり、熊本バンドの結盟へと進むのである。徳富蘇峰、小崎弘

   道、海老名弾正など多くの逸材を輩出した5年間のジェーンズの

   教育は日本の教育史上でも稀有な出来事だっただろう。

      木下順二の『風浪』第一幕は奉教事件の1年前の初夏、実学党

   の中心人物山田嘉次郎(蚕軒)の家が舞台である。蚕軒の息子た

   ちが、ジェーンズ(『風浪』ではジェインズだがこの表記に統一

   する)の助けでアメリカから取り寄せた馬鈴薯や落花生を植えよ

   うとしている。そこへ蚕軒と20歳前後の若者、学校党を抜け出

   し敬神党に入ったばかりの佐山健次、学校党の山城武太夫、実学

   党の田村伝三郎が出てくる。佐山は旧藩主が、新政府が送り込ん

   だ県令によって知事の座を追われたために、仕える対象を失って

   いた。目標を無くし、敬神党に入った佐山はそこで情誼に厚く、

   真剣に国家のために尽そうとしている人たちを見て、生き甲斐を

   感じた。敬神党とは林桜園の私塾「原道館」に学んだ勤王党の人

   たちで、神の意によって世の中は動くと信じていた。しかし、し

   ばらくして(第二幕で)佐山は、どんなに神に祈っても何も変わ

   らない、 と悟る。

      第三幕はその1年後、林原敬三郎らの奉教の盟約が終った翌日

    (131日)、神風連は署名者を「耶蘇の国賊!」と罵り、また

   施行された廃刀令(実際は328日)に激怒していた。佐山健

   次はまだ何が正しいのか分らず、実学党の蚕軒先生とジェーンズ

   に教えを乞いに来た。しかし蚕軒先生は「堯舜孔子の道」を繰返

   し、「西洋器械の術」を究めるが、「性根はどこまでも日本人。こ

   れが肝腎の所たい」と和魂洋才を強調するだけだった。ジェーン

   ズの通訳をしている洋学校生林原に「耶蘇ば奉じて何ばしゅうち

   ゅうとな?」と聞くと、林原は、蚕軒先生に臆せずものが言える

   のは「ゴッドの力がわれわれの中に充ちて籠もってつき動かしよ

    るけんたい」と答え、「われわれが日本中の人間ば敵にまわす覚

    悟の出来(でけ)とツとも」と言う。それでは満足できず、佐山はジェー

    ンズに、キリストの教えを信じて「何の役に立つのか」と聞いた。

    ジェーンズはキリストの教えは常に正しいこと、それが日本のた

    めになる日が必ず来ること、しかし信じなさいと他人に言うこと

    はできない、生徒たちは自分で信じたのだ、と言う。その答は「役

    に立つ」ことを探し求める佐山健次には十分ではなかった。

       第四幕はそれから数カ月後、神風連の乱が起った日である。佐

   山健次は林原敬三郎を襲った神風連の一員である幼馴染の藤島

   光也を、暴挙だと言って斬った。そのことが佐山の進む道を決め

   た。第五幕はその数か月後、西南戦争が23日後に起ころうと

   している日、佐山は彼を敬神党から抜け出させた元敬神党の河瀬

   主膳と料理屋にいた。河瀬は東京に出て民権党に入り、将来言論

   で立とうとしていた。河瀬は佐山に、以前大義ということをしき

   りに言っていたが、西郷軍に加わるのは西郷の主張を大義と思う

   からか、と聞く。佐山はそれには答えず、今の政府ではいかんと

   答え、最後に次のように言う。

 

  

主膳、俺もう、精神ば尽して考えるだけ考えた。議論もし

つくした。俺もう頭の中だけで考える(こつ)やめにした。人

と議論する(こつ)もやめにした。俺もう逆賊(ぎゃくぞく)よか。暴徒て

呼ばれて構わん。とにかく大義ばうち忘れとる今の政府ば

倒そうちゅういくさに、俺飛びこんで行く。それから先は

……道が開くるか、絶ゆるか、そらその時の話たい。

   

   木下順二が初めての劇『風浪』の原型を書いたのは大学を卒業

した1939年である。『木下順二戯曲選Ⅰ』の「あとがき」には、

その年の12月1日に熊本の騎兵第六連隊に入営が決まっていた

ので、死ぬかもしれないと思って、入営までに172枚を書き上

げた、とある。明治初期の熊本を取り上げたのは青年時代を父の

郷里熊本で過ごしたからである。明治の雰囲気は彼が『風浪』を

書く頃にはまだ残っていた。木下はノートを持って熊本の町を歩

き、総庄屋であった曽祖父が丹念に付けていた天保頃から明治

10年代までの日記を読み、洋学校を含む明治初期の熊本に関す

る研究書を読んだ。『風浪』は骨太で、時代考証のしっかりした

優れた作品である。1954年に第一回岸田演劇賞を受賞している。

      『木下順二集2』の「解題」で演劇評論家菅井幸雄は、先に引

   用した『風浪』の最後の佐山健次のセリフを引いて、「作者は、

   絶対主義的な政策をとる明治政府を否定した主人公を造型する

   ことによって、歴史を真に進めうるものとはなにか、という近代

   日本が直面した根本的課題の意味を問いかけてきたのである」と

   言う。菅井はさらに、「『逆賊』といわれ『暴徒』とののしられよ

   うとも、みずからの考える『大義』のために西南戦争に参加する

   佐山健次は、明治期の日本の矛盾をもっとも鋭く批判した人物の

   典型として、忘れることができない」と言う。

     木下順二は1936年、連隊に入営する前に、死を覚悟して『風

   浪』を書いた。その追いつめられた心境が佐山健次に反映されて

   いるのは間違いない。しかし、命を賭けるものを見出せないまま、

   一か八かの行動に出る佐山は木下とは遠い存在ではないか。むし

   ろ木下は、佐山に対して、大抵の士族は主義も主張も持たず、「あ

   たりがわっと騒ぎたつとすぐ浮き立って騒ぎ出す」と批判する

   河瀬主膳に近いのではないか。佐山の逡巡にドラマティックなも

   のを見ていたとしても、木下は決して「俺飛びこんで行く。そ

   れから先は(略)そらその時の話たい」と言うような人ではな

   い。木下はむしろ言論で立つという民権党の河瀬、佐山に「ええ

   か健次、俺、俺達やっぱり死なんで、生きて、もがいてもが

   いて進んで行かにゃならんとぞ」という河瀬に近いのではないか。

   あるいは、キリスト教徒であることを宣言し、迫害を受けながら、

   「日本中の人間ば敵にまわす覚悟の出来ととも」と言う林原敬

   三郎やその仲間に近いのではないか。

     ここで明治初期の熊本の雰囲気を確かめておきたい。阪田寛夫

   は『花陵』執筆の調査のために熊本を歩いた時、熊本の近代史研

   究会の主宰者から、「熊本では武士の風上におけぬ奴だと、小楠

   はさげすまれていました」と聞いて驚く。小楠は細川藩では冷遇

   されたが、幕末に福井藩主松平慶永(春獄)に重用され、1869

   年1月、明治新政府から参与に命じられ上京した。小楠が京都で

   暗殺されたのは、「夷賊に同心し天主教を海内に蔓延せしめんと

   す」という根拠のない理由によるものだった。熊本の敬神党は小

   楠の死に快哉を叫んだと言われている。それから7年後に洋学校

   生35名が奉教の盟約をした時、同じ学校の36名の生徒がそれ

   に反対して、水前寺公園に集まった。奉教趣意書に署名した生徒

   たちは家族の迫害を受けた。その内20名は8月の卒業前後に、

   教師ジェーンズの計らいで同志社に進んだ。彼らは熊本にいられ

   なかったのだ。木下順二は明治初期の熊本の状況や、ジェーンズ

   と洋学校生のキリスト教信仰を正しく理解していたことが分る。

 

       ここで『木下順二集16』の年譜から『風浪』に関わる部分を

   見ておこう。

      1939年(25歳)4月、大学院に入る。5月、徴兵検査、第一

   乙種合格。

      19403月、熊本騎兵第六連隊現役入営のところ、病気を称

   して即日帰郷。入営の前夜、『風浪』第一稿を書き上げる。

      1942年 召集を受け、再び病気を称して即日帰郷。以後、敗

   戦まで不安にさらされるが、召集来ず。

      1943年 『鶴女房』(『夕鶴』の原型)などを書く。12月、法

   政大学講師として学徒出陣を見送る。

      1945年 空襲激化、8月、敗戦。不明瞭な放送を銀座松屋で

   聞くが、何の感慨も持たず。

      19464月、明治大学講師(演劇)となる。この頃、『風浪』

   の改稿につとめる。

      それにしても徴兵検査で乙種であった木下順二が、二度も召集

   を受け、二度とも「病気を称して即日帰郷」ということがどうし

   て起ったのだろう。帰郷し、教え子の出陣を見ていた時、木下は

   どのような心境だったのだろう。たとえ病気であったとしても、

   後がどうなろうと、戦に飛び込んでいく『風浪』の佐山健次のよ

   うな心境でなかったことは確かである。これは筆者の全くの想像

   で、木下をよく知っている人には笑われるだろうが、木下は良心

   的兵役拒否者であったのではないか。木下は東京大学に入学した

   1936年、22歳の時の夏に、カリフォルニア州オークランドで開

   催された世界基督教学生聯盟太平洋会議に出席し、世界の国々の

   青年に出会った。おそらく迫りくる戦争の話が出ただろう。クエ

   ーカー教徒たちもいて、兵役拒否の話が出ただろう。英米におい

   ても兵役拒否を貫くことは卑怯者というレッテルを耐えなければ

   ならないことであった。木下はその会議で知り合った欧米人と

   戦うことができなかったのではないか。『風浪』に書かれた、「俺

   達やっぱり死なんで、生きて、もがいてもがいて進んで行かに

   ゃならんとぞ」という河瀬や、「日本中の人間ば敵にまわす覚悟

   の出来ととも」という林原の言葉は、木下の心境を物語るもの

   だったように思える。

      今はまだ確証がないが、熊本洋学校教師ジェーンズの撒いたキ

   リスト教の教えは、熊本バンドの孫の世代に当たる木下順二の中

   に息衝いていたように思う。