陽水とあそぶために――ロバート・キャンベル編著 『井上陽水英訳詞集』

(講談社,2019

御輿 哲也

 

 

 ロバート・キャンベル氏は、東大駒場で長年にわたって日本文学の研究をされてきた篤実な学者なのですが、そんな彼が井上陽水のファンで、数ある名曲の歌詞の英訳を試みられたと聞いて、ちょっと驚きました。いや「たかが日本のポップミュージックなんかを」と驚いたわけではありません。井上陽水の歌詞については、竹田青嗣さんや筑紫哲也さんなどが早くから、その「詩」としてのユニークな面白さを指摘しています。たとえば一筋縄ではゆかぬ語呂合わせや言葉遊びがある一方で、プロテスト・ソングと見せかけて巧妙にはぐらかしたり、本音を見せない堅いガードの下に不意に素顔がのぞいたり――要するに、あのユーミンが「ウナギのような人」と評したという掴みどころのないシンガーの言葉を、それでも敢えて翻訳の対象に選んでみせたことに、小さからぬ驚きを感じたのです。

 もちろん、対象が名うての難物であるほど、翻訳者としての意欲がかきたてられるというのは、わからないではありません。それに、日本文学の外国人研究者として、理解困難に見える表現のどこまでが日本語本来の性質によるもので、どこが陽水個人の与えた「ひねり」なのかを、きちんと見極めたいという思いもあったことでしょう。いずれにしても、デビュー時から最近までの50曲におよぶ陽水の歌について、訳詞の解説にスペースを割きながら、それぞれ対訳の形で見事に英訳してみせた力業は、高く評価すべきものだと思います。

 その中にあって、十分作品を読み込んだ人ならではの名訳も少なくないのですが、思わず膝を打ったのは「夕立」(An Evening Cloudburst)です。陽水の比較的初期の楽曲で、急に訪れた夕立にあわてふためく人々の姿が、速いテンポの曲に合わせてユーモラスに、また少し皮肉をこめて活写されています。そして最後は次のように結ばれます。

 

   家に居て 黙っているんだ

   夏が終るまで

   君の事もずっと おあずけ

   Stay home, shut up

   till summer ends.

   You too my love――a rain check.

 

ここ数年の夕立は、時に集中豪雨を思わせる激しさを帯びがちですが、それにしても「黙っているんだ」とか「夏が終るまでずっと」とかいうフレーズは、いかにも大げさすぎます。けれども最後の一行まで来て、やっとわかるのですが、この「夕立」は単なる自然現象だけを指すのではなくて、「君」と呼ばれる人と「僕」との恋愛関係を揺さぶるような出来事、たとえば、ちょっとした君の「裏切り」が僕にとっては「青天の霹靂」だったというような、そんな出来事が重ね合わせられているようです。そう思って読むと、急な夕立に右往左往する人々の様子には、どこか残酷な気配も感じられます。そして最後の言葉「おあずけ」を含む一行を、キャンベル氏は “ You too my love-―a rain check”  と訳すのですが、これはご本人も自負されるとおり、まさに納得の名訳です。今は大きなショックであっても、二人の仲が決定的に壊れるわけではなく、恐らく時間が解決してくれるはずといったことまで、言外にほのめかされているのですから。

 さて、陽水といえば、ほとんどナンセンスな言葉遊び満載の歌詞でもよく知られているのですが、キャンベル氏は、その種の手ごわい「遊び」に対しても柔軟かつ果敢に挑戦してみせます。たとえば一貫した意味の流れを追うことがどう考えても不可能そうな「アジアの純真」(Purity of Asia)も、翻訳の対象に入れられています。

 

   北京 ベルリン ダブリン リベリア

   束になって 輪になって

   イラン アフガン 聴かせて バラライカ

        (略)

   白のパンダを どれでも 全部 並べて

   ピュアなハートが 夜空で 弾け飛びそうに

   輝いている 火花のように

 

キャンベル氏は、歌詞の中の音の響き合いを大事にする陽水の好みを十分承知していて、この箇所の訳では、特に前半部での “b” 音や “a” 音の断続的な繰り返しを何とか再現しようとします。

 

   Beijin, Berlin, Dublin, Liberia

   bundle them up, form a circle

   Iran, Afgan:  play us your balalaika.

 

さらに氏は、この種のナンセンス遊戯は、日本の近世文学にもよく見られると指摘した上で、近世文学研究者の中村幸彦氏の言葉を引用します。――「一つの形式の中にあらぬものを種々あてはめて、牽強付会を極めることを吹寄という・・・。類似と相違の錯綜が、子供の玩具箱をひっくり返す如く、読者の記憶の用箪笥を引っかきまわし・・・快く知識遊戯の陶酔感に導いてゆく」(『戯作論』)――なるほど。この手のレトリックは、江戸文化に通じた氏にとってみれば、むしろお馴染みのレパートリーだったのでしょう。

 しかし、こうしたある意味でデタラメな言葉の配置も度を越すと、さすがのキャンベル氏でもお手上げ状態になるようです。たとえば「リバーサイドホテル」。謎めいた不気味さをまとったイーグルスの「ホテル・カリフォルニア」を彷彿させる作品で、このホテルも“ You can check out anytime you like, but you can never leave.” と口にしたくなるような気だるさが漂うのですが、なぜかほとんど同義の日本語と英語を並べて使うことで、具体的なホテルの姿を遠ざけているようにさえ感じます――「部屋のドアは金属のメタルで」「川に浮かんだプールでひと泳ぎ」「(ホテルは)川沿いリバーサイド・・・、水辺のリバーサイド」など。こんな悪ふざけにも似た表現の連続には、翻訳者としても手の打ちようがないに違いありません。さらに陽水自身が、嘘かまことか「デモテープに適当にはめこんでおいた言葉を、手を加えずにそのまま使ってみた」と語っている “ My House” になると、もはや鮮やかなまでに常軌を逸しています。

 

   俺はキャッチコピーだ

   俺はキャッシュサービス

        (略)

   恋は電子キャラメル

   街の道に無知な人波

   山羊の耳に盛り上げ製菓

        (略)

   俺の悲しみは ma ma ma ma ma ma・・・

   雪の白アリはわからん ム

 

遊びもここまで来ると、「吹寄」でも「語呂合わせ」でもなく、一種の壮絶さを帯びはじめます。見方によれば、ここにも見られる妙な和製英語の氾濫と、そこに映される現代社会の干からびた風景を読み込むことも不可能ではないでしょうが、これを律儀に英訳したところで、「わからんム」となるだけでしょうから、翻訳リストからはずされたのは賢明な判断だと思います。

 けれども、ひとつ残念なことは、陽水の歌詞の中には一見ただの言葉遊びと見えて、実は意外に深いメッセージが潜ませてある場合が往々にしてあるようなので、そういった面について、もう一歩踏み込んだ分析や解釈があれば、という気持ちは残ります。その典型的な例として、キャンベル氏も翻訳されている「少年時代」(Boyhood Days)を取り上げてみましょう。

 

   夏がすぎ 風あざみ

   誰のあこがれに さまよう

   青空に残された 私の心は夏模様

       (略)

   夏まつり 宵かがり

   胸のたかなりに あわせて

   八月は夢花火 私の心は夏模様

  The summer’s gone, wind-thistles―

  whose longing are we to wander across?

  Left out in the blue sky, my heart takes on the shape of summer.

             …………

  Summer festivals, torches light up the night

  together with the beat of my heart

  August is fireworks in a dream and my heart takes on the shape of summer.

 

原詞を読んですぐに気がつくのは、一人称に「私」が使われていることです。

陽水のすべての曲を知るわけではないのですが、彼の場合、男性の歌においては「僕」か「俺」が使われ、「私」を使うのは「心もよう」「フェミニスト」「飾りじゃないのよ涙は」など、一般に女性の歌に限られるようです。だとすれば、「少年」を扱ったこの歌で、なぜ「私」になるのでしょうか。

 陽水の「音」へのこだわりを踏まえて考えると、やや造語的なフレーズである「風あざみ」「宵かがり」「夢花火」といったキーワードの後半の母音が、いずれも【アイ】となっていることに気づきます。そして、それらの少年時代を象徴するイメージを静かに想い浮かべているのが「私」で、無論これも【アイ】と響きます。そう考えると、これらの言葉の同じ響きの反復の中で、私とイメージとが次第に重なり合い融け合っていくようにも思えます。つまり、取り戻せるはずもない「過去」の少年時代の鮮烈な思い出の中に、いつの間にか「現在」の私がゆっくりと包み込まれていくような感覚が生じます。ただし、それは【アイ】の音の群れが響きあっている間の、ごく短い時間の幻にすぎないのでしょうけれども。

 

 それにしても、こんな日本語特有の人称代名詞の使い分けに基づくメッセージなどは、そのまま英語に移し替えられるようには思えません。ただ、全く無理というわけでもなさそうで、本書に収録された著者と陽水氏との対談の中にも、小さなヒントが見つかるような気がします。たとえば、初期の作品「傘がない」を “ I’ve Got No Umbrella” と訳したキャンベル氏に対して、陽水氏はやや難色を示したうえで、「いいですか、傘は象徴なのです。『俺』の傘ではなく・・・」と述べ、その結果 “No Umbrella” というタイトルに落ち着いたそうです。キャンベル氏の見事な英訳に注文をつける資格など自分にないことは、重々承知していますが、「傘がない」と同様、いくつかの場所や時間が輻輳している「少年時代」においても、“ I ”“we” 、それに時制を示す動詞などをある程度減らすことで、どことも知れぬ場所に「私」がゆっくり漂う姿が垣間見えてこないでしょうか。ひょっとすると、それを見て、あの「ウナギのような人」も、わずかに含羞の笑みを浮かべながら「ええ、『僕』の少年時代というわけではないので」と言ってくれるかもしれません。