「新しい日常」とは? コロナ禍とモダニズム

 

御輿 哲也

 

 

  最近、妙な言葉を耳にすることが、多くなったような気がします。た

 とえばコロナ・ウィルス対策と称して、政府は国民に「自粛要請」をす

 るというのですが、誰かに請われてすることが、そもそも「自粛」と言

 えるのでしょうか? また、パンデミック後の社会においては「新しい

 日常」に生活スタイルを切り替えよ、ともいうのですが、「新しさ」の

 中身も不透明なままで馴染んでもいない環境を、いきなり「日常」と呼

 べるのか――とまあ、こんな話をしていると、小うるさい爺さんだと疎

 まれるのがオチでしょうから、いい加減にやめておきますが、どこかで

 微妙な言葉のすり替え、あるいは言葉によるカムフラージュが施されて

 いて、本当の現実の姿は見えないところへ遠ざけられているように感じ

 てしまうのは、果たして私だけなのでしょうか?

 

         *      *      *

 

  「よく知っているはずの言葉でも、なかなか思い通りには使いこなせな

  いものだ」という、見方によってはとても意味深長な述懐に及んでいる

  のは、Virginia Woolf  です。比較的晩年のエッセイ “ Craftsmanship  

  の中で、彼女は次のように述べています。

 

      Words, English words, are full of echoes, of memories, of

                     associations―naturally. They have been out and about

                     on people’s lips, in their houses, in the streets, in the

                     fields, for so many centuries. And that is one of the chief

                     difficulties in writing them today--that they are so

                     stored with  meanings, with memories, that they

                     have  contracted so many famous marriages. The

                     splendid word ‘ incarnadine’, for example―who can use

                     it without remembering also ‘multitudinous seas’?

                (ちなみにこのエッセイは、Woolf 自身が朗読したテープが

                     BBCアーカイヴに残っていて、You Tube などで簡単に聞

           くことができます)

 

 たしかに”incarnadine" というきれいな響きの言葉も、一旦 Macbeth

の中での残酷なほど鮮やかな使われ方に触れてしまうと、もとの印象に

は戻れないというのは、納得できそうな話です。このように「過去に使

われた見事な表現」や「幾世代にもわたる意味の蓄積」に対して、きっ

ぱりと背を向けるどころか、むしろ過剰なまでにそれらを意識し続ける

というのが、単にWoolf のみならず、一般にモダニストと呼ばれる作家

や詩人に共通の逆説的な特徴であったことは、Joyce T. S. Eliot

の例に照らしても十分明らかです。過去の経緯を振り捨てて実験的な手

法に邁進したといったモダニズム観は、控え目に言っても的はずれだと

言うべきでしょう。だとしても、一体どうしてそこまで「過去」を意識

せずにいられないのか――その疑問を解くカギの一つは、彼らの文学に

とって「日常性」が持つ意味の中に潜んでいるように思えます。

 Woolf  が自らの小説観を述べたエッセイ ”Modern Fiction" で、「な

 んでもない一日の心の動きをのぞいてみよう」と言ったことはよく知ら

 れています。

 

      Examine for a moment an ordinary mind on an ordinary

day.  The mind receives a myriad impressions – trivial,

fantastic, evanescent, or engraved with the sharpness

                     of steel.  From all sides they come, an incessant shower

                     of innumerable atoms;  and as they fall, as they shape

                     themselves into the life of Monday or Tuesday, the

                     accent falls differently from of old;...

 

  しばしば引用されるこの一節については、James Naremore らの指摘

 にあるように、前後の文脈から考えると、必ずしもWoolf 個人の主張では

 なく、Joyce を含む新しい世代の意見を代弁しようとしたものと受け取

 るべきもののようですが、たとえそうだとしても、これでもかと言わん

 ばかりに並べられた「微細な瞬間」、「無数の印象」といった、紛うか

 たなきWoolf 的な表現の背後に、彼女自身の素顔が見え隠れしているこ

 とは否定できないはずです。そう考えてみると、彼女の言う「なんでも

 ない一日」が「なんでもない」とは言いながら、実は一筋縄ではいかな

 い要素をかかえていることが見えてきます。

  たとえば、『灯台へ』の第1部は、そのほとんどがラムジー夫人の、

 どっぷりと「日常」に浸った意識によって構成されているのですが、時

 折りかなり異質な思いが姿を見せます。例を挙げれば、ふと周囲の会話

 が途切れた時など「普段は隠されていた波の音が、急に大きくうつろに

 響きわたり、恐怖にかられて思わず顔を上げる」場面とか、夕食のテー

 ブルを囲みながら「一歩外に出れば、すべてが水の流れのようにたゆた

 っては消えていく影の世界があるかのようだった」といった、漠然と不

 吉な思いに彼女の心が捕らわれるような場面もあります。

  これらの場面について、やがて第2部を支配することになる間近に迫

 った第一次大戦の予兆であるとか、夫人自身の死が近づいていることの

 伏線である、などと受け止めることは、もちろん可能ではあるでしょう。

 けれども、何の前触れもないまま何度となく姿をあらわしては夫人の平

 静な意識をかき乱すようなこれらの思いは、なぜか確実に彼女の「日常」

 の一部になりおおせています。それらは、不安をもたらすものばかりで

 なく、時に歓喜や恍惚を呼ぶものでもあって、いずれにしても狭苦しい

 目の前の現実から夫人の意識を解き放つことで、まぎれもなく彼女の「日

 常」を広げ、深めるとともに、より豊かなものに高める力を秘めたもの

 のように思います。こうした瞬間によって様々に彩られた夫人の日常生

 活は、たとえ時あやうく見えることがあっても、決して単調でも平板

 でもない充実感をたたえていたはずです。                         

  そもそもWoolf の作品では、長編、短編を問わず、簡単には意味づけ

 できなくて、それでもどういうわけか記憶に残るような、小さなものや

 印象的なイメージに多数出会います。たとえば「キラキラ光るガラスの

 破片」や「ソファーに置き忘れられた手袋」、あるいはまた「窓ガラス

 にぶつかった蛾の死骸」や「壁についた染みと見まがうカタツムリ」な

 どがそれにあたります。これらは象徴的な意味を与えられそうになりな

 がらも、何とかそれをすり抜けて、結局は意味不詳」という名の自由

 を携えたまま、作品の中の「日常」の意味をたえず更新し、微妙に押し

 広げることに貢献していると言えましょう。ただし、Woolf がそれを新

 しい日常」などという雑駁な表現で呼ぶことは、ついになかったようで

 すけれど。

 

       *        *       *

 

 モダニズム一般と「日常性」の関わりについては、

 Bryony Randall , Modernism, Daily Time and Everyday Life 

 (Cambridge UP, 2007)  

Michael Sayeau, Against the Event  (Oxford UP, 2013)

などのアプローチが参考になります。