吉田長祥とバーナード・ショー

河崎良二

 

 

 

  阪田寛夫の小説に「背教」、「冬の旅」がある。「文学界」 1975(昭和

 50)年11月号と翌年の3月号に発表され、4月に文藝春秋社から『背教』

 として出版された。前者は作者が洗礼を受けた南大阪教会の日曜学校の

 校長の背教を、内面に立ち入ることなく、距離を取って描いた小説であ

 る。明確な判断は示されていないが、作者は主人公の背教を独自の道と

 して認めているように思える。後者は「背教」の主人公の五女が、30

 前の敗戦前後の父母、戦病死した長兄などの思い出を語る形式を取った

 短編である。年末の一日の、わずか数時間の回想の中で多くの思い出が

 緊密な関係を持ちながら語られているだけでなく、背教に対する作者の

 思いが五女の言葉として暗示された、深みのある小説である。

  阪田寛夫はキリスト教信者であった両親や身近な人たちの生涯を描い

 てきた。「背教」では「その子」、「彼」と書かれ、「冬の旅」では吉松玄

 祥と書かれているのは1889(明治22)年生の岳父吉田長祥である。吉田

 長祥の八人の子供の末っ子である五女・豊が作者の妻だが、冬の旅」で

 は禮となっている。このように、阪田寛夫の小説は事実に薄い虚構の膜

 を掛けたものが多い。吉田長祥が3カ月の乳呑児で裕福な大阪の穀物問

 屋に貰われてきたことも、養母が熱心に道徳の向上を説く大阪教会の牧

 師の説教に触れてキリスト教徒となり、キリスト教の教えに従って彼を

 育てたのも事実だろう。「冬の旅」には野尻湖の別荘が重要な舞台となっ

 ているが、戦時中に敵産家屋として売り払われようとした野尻湖外人村

 の別荘を、吉田長祥が多い時には4軒も購入し、政府に交渉に行って守

 ったのも事実である。そのことは阪田寛夫と60以上に亘って親交を結

 んでこられた吉岡済兵庫医科大学名誉教授の著書「春秋記」に書かれて

 いる。阪田寛夫は岳父が遺した野尻湖畔の別荘で多くの作品を書いた。

 中でも、長年キリスト教に対して抱いてきた疑問が、野尻湖に近い信濃

 村伝道所の影山譲牧師との交流の中で氷解する過程を描いた『バルトと

 蕎麦の花』は名作である。阪田氏の野尻湖の別荘や信濃村伝道所を吉岡

 教授や、阪田氏の長女で作家の内藤啓子氏に案内していただいた楽しい

 思い出など書きたいことはたくさんあるのだが、吉田長祥を知っている

 人はほとんどいないと思われるので、幼少時代からショーとの出会いまで

 に絞って紹介したい。

  吉田長祥は養母の期待に応えてよく勉強した。その褒美として小学三

 年生から川口居留地へ英語の勉強に行かせてもらった。何をしても養母

 は怒らなかったし、当時のほとんどの大人が知らない英語を勉強してい

 ることで得意になり、高慢な人間になっていった。しかし旧制市岡中学

 に進んだ時、戸籍謄本を見て自分の出生を知り、打ちのめされた。友人

 たちの前ではいつも通り威張っていたが、一人になると涙が止まらなか

 った。この困難を乗り越えようともがき苦しんでいたところ、ある日、

 代数の勉強をしていて閃いた。「実母」と「養母」を「肉体」と「心」に

 置き換えればいいのだ。教会で教えられたことが生きてきた。「肉体」は

 卑しく、滅ぶべきものだが、「心」は尊い、永遠のものだ。「養母」と自

 分とは「血以上の心でつながっている」のだ。彼はうれし涙を流した。

 しかし、「心」が存在することを証明しなければならない。ちょうど読心

 術の世界的権威コノラ女史が公開で科学的実験をするという記事が新聞

 に出ていた。彼は丁稚に連れて行ってもらって、目隠しをした女史が見

 物人にガラス球を渡し、それを持っている人を当てる実験を見た。二日

 目、彼は一人で出かけ、女史が球を持っている人を当てようとする瞬間

 に、自分が持っていると強く思ってみた。すると、女史は彼の方に向っ

 てきた。あわてて持っていないと思い直すと、女史は別の人の方に向っ

 た。何度かそれを繰返すと、女史は球を持っていない人が持っていると

 故意に思われるので今日はできない、と言って止めてしまった。日本語

 の分らない女史に心が通じたのだ。「神への祈りと同じで、心と心のまじ

 わりには言葉さえいらないと証明された」、と彼は確信した。もはや母の

 問題に悩むことはなかった。「この世界に心の存在を実際に確かめて知っ

 ている者が何人いるか」。彼は一層傲慢になり、「生意気な青年」になっ

 た。

  官立神戸高等商業に進んだ時、新聞に翌年ハレー彗星が地球に衝突す

 るという記事が出た。先生も級友も何の心配もしていなかったが、彼は

 地球の滅亡と共に自分も死ぬことに真剣に悩んだ。一年ほど悩み続けた

 ある日、コノラ女史のことを思い出し、「自分は物質ではなくて心なのだ」、

 「たとい地球が消えても心は残る、従って自分も滅びはしない」と思っ

 た。後に彼は日記に、「物質は実質に非ず、唯一の実存は内なる不滅のタ

 マシヒなりと大悟し、神人合一の境に達し得たるは幸ひなりき」と書い

 た。

 東京高等商業学校専攻部に進んで経済学を学んだ後、大阪に戻って養

父の仕事である穀物問屋を継いだ。専攻部で商品取引所の売買を研究し、

見通しがないと判断していたので、雑穀の代りに硫黄、ビート・パルプ

を輸入した。八時間営業に切り替えるなどマックス・ヴェーバー流のピ

ューリタン精神で商売をした結果、商売は順調に伸びて行った。「陸海軍

御指名、硫黄問屋」となり、また北陸の絹織物工場を買い取るなど、大

きな富を築くことができた。

 吉田長祥がいつ頃バーナード・ショーに関心を持ったかは分からないが、

 後述の冊子に、ショーのロンドンの邸宅を訪ねたが、不在だったと書い

 ている。吉田長祥がショーを尊敬する理由は上記の「背教」の叙述から

 想像できるだろう。彼らには共通するものがあった。それは、この世の

 あらゆることを知性によって理解しようとする一途さであり、そこから

 生まれる過剰なまでの自信と直截な物言いであったように思う。

  1925にノーベル文学賞を受賞し、世界的な名声を得たショーが世界

 旅行の途中に夫人と共に日本を訪れたのは、1933(昭和8)年33

 から9日までの7日間である。この時、「朝から晩まで押寄せ取囲む厚顔

 の記者連にばかり任かせて、珍客の日本印象を台なしにしつゝあるを見

 棄てては置かれぬ、之れを救ふ者は私をおいて他に誰があらふ」と、吉

 田長祥は34日にショーが宿泊する京都のホテルを訪ね、日本名所写

 真の封筒にYOUR UNKNOWN FRIENDと書いて取り次いでもらった。

 不思議なことに、気難しいショーが彼を散歩に誘った。「揃ひも揃つて二

 人共一刻も黙つて居れない人間だ。歩むに連れて段々雄弁になり、遂に

 ノベツ幕なし、彼語り、我語り或は囁き或は爆笑し、手振身振をしなが

 ら大股に歩く」。それから4日間、二人は京都、奈良、横浜、東京で、日

 本の宗教、文化、政治、経済について語り合った。ショー77歳、長祥44

 歳の時のことである。吉田長祥は翌月に 32頁の冊子Steps of Mr. G.

 Bernard Shaw in Japan  (邦題『G. Bernard Shawさんと散歩する』)

 私家版で出版した。

 英文学者野上豊一郎の著書『バーナード・ショー』(東京堂、1949)

はこの時のショーの訪日への言及がある。能の研究者でもあった野上豊

一郎はショーの人物と作品の勘所をうまく押さえていて、今読んでも面

白い。ここでは第1章「豫言者か、道化か」と、15「先天的舞台芸

術家」から引用する。尚、引用文中の旧字体は常用漢字に直した。

 

 ショーの今日の名声は、彼が生涯をつひやして戦ひ取つた名声であ

 る。彼は若い時は貧乏と闘つた。社会に出ては社会の不正頑冥と戦

 つた。戦の目的は結局社会の改造といふことであつた。改造の意志

 は押し広められて、人類の改造といふことにまで進んだ。さうして

 その武器は主として戯曲であつた。

  けれども彼は決して打ち勝つてはゐない。(中略)いかに世界を導

 かうとしても、世界は彼について行かうとはしなかつた。そのこと

 を一番よく知つてゐるのは彼自身であつた。(後略)

此の人類に対する絶望は最近に於いて殊にいちじるしく、それは

作品にも現はれてゐるが、不用意の言説には一層よく現はれる。現

に、能を見た時の感激を語つた彼の言葉の中にも、「諸君、人道は絶

望です」(“Ladies and Gentlemen, humanity is hopeless!”)と云つた

りしてゐる。(後略)

 

  人間は意欲して達成されないものはない。此の世界もいつかは天

 国となり、人間も遂には神となるであらう。その信念が進化の契機

 となる。併し、此の世界は天国ではなく、人間は決して神でないこ

 とをショーは誰よりもよく知つてゐる。(中略)現実主義者であり、

 創造進化論者である彼は、一方に於いては人間の愚昧に哀措をつか

 しながら、また一方に於いては人間以上の者の出現を期待しながら、

 改造の情熱を棄てないでゐる。(後略)

 

  GK・チェスタートンも評伝『ジョージ・バーナード・ショー』でシ

  ョーの「知的活動」について述べている。ショーは「現代における最大

 のピューリタンである」。ピューリタニズムの第一の特質とは「神を観想

 し善を観想するにあたって、もっとも熾烈なる知性の集中以外の一切を

 拒否するという信条である」。「神人合一の境に達し」たと言う吉田長祥

 とショーとはやはり共通のものがあったのではないか。

ところで、先に引用した「諸君、人道は絶望です」を野上豊一郎はシ

ョーの「人類に対する絶望」と解釈しておられるが、逆説の好きなショ

ーの言葉を鵜呑みにするのは危険である。というのは、ショーがその言

葉を発した時、ショーのすぐ後ろで能を見ていた吉田長祥は次のように

書いているからである。38日午後3時から、九段能楽堂で改造社主催

のショー歓迎能が催された。演目は『巴』で、説明役はオックスフォー

ド大学講師として芭蕉を講じた詩人、評論家の野口米次郎であった。吉

田長祥は、「櫻間新三郎氏の巴、寶生新氏のワキうまいものである。私

父が斯道の数寄者であつたから、門前の小僧、習はぬ経を読む流儀で余

程上手な演技でないとアラが見えて困まる。今日はショウさんの御相伴

で有難い見物をした」と書いている。巴が終った後、改造社社長が歓迎

の挨拶の中で、「改造社は十有余年人道と平和の為め奮闘努力して来た」

と述べた。ショーは立ち上がって、「能は自分の本職の劇であるから大い

に学ぶ所あつた」と謝辞を述べた。序に芸術論を一席述べ、先の社長の

言葉尻を捕まえて、「『人道が何ですか!((Humanity is hopeless!)芸術に

は芸術独自の境地あつて存し、我等が筆を執るは、やむにやまれぬ心の

命ずるあるが故である。其結果が人道の為めに善いやら、悪いやらそん

なことは知つた事でない。』とまくし立てる。「旧式人道とショウの衝突」

と吉田長祥は注を入れている。野上豊一郎も「彼のそば近い席に居合は

せて」と書いておられるのだが、詳細は分からない。序に言うと、この

日の朝の陸相との会談が「バーナード・ショーと荒木陸相の珍問答(昭

8年)」としてネットに挙げられている。

 「珍問答」は荒木陸相との会談だけでなく、翌日の早稲田大学演劇博

物館でもあった。多士済々の先生たちがショーを取り囲み、ショーの作

品の日本語訳を並べた展覧会に案内した。するとショーは「日本語に翻

訳の承諾を與へた事はない」と怒った。ところが、関係者は馬耳東風、

次は日本で演出した芝居の写真を見せた。すると、「『私は絶対に此連中

を承認した事はない』と大声あげ」た。大隈会館に移って、77のショ

ーに「翁」の面を贈呈し、「長寿を保たれます事を」と挨拶した。さすが

にショーも「この面の様に髯が抜けてショボショボになれと言はれるの

ですか?」と笑ひ乍ら突込む」と吉田長祥は書いている。

これに比べると、吉田長祥の対応は素晴らしい。世界的作家を、言わ

ば対等の人間として遇している。彼は「人と人との対面である。さうし

て主人が客人を歓待する気持で案内をした」と書いている。吉田長祥が

ショーを深く理解していたことは、横浜を歩いている時にショーが発し

た「一個の社寺も無いのか?汝、無信仰の都よ(Godless City !)」という

言葉を次のように解したところに見て取れる。

 

 其の太い沈痛なる声は決して無神論者の声でなく、預言者の如き響

 きを以て私の耳朶を打つた。驚いて彼の顔を見れば悲痛なる色を現

 はして俯向いて居る。此時私の心にチラリと閃くものがあつた。「神

 を求めて歩るく」彼の姿である。恐らく社会主義者達は私の言を信

 じたくあるまい。然し彼の近著を見ても(旧著を見ても)、又京都で

 奈良で幾度も宗教問題を論じた彼を見、殊に今の彼を見て、私は彼

 も亦た神を求めつゝあるをマザマザと見たと思ふ。

 既成宗教に満足出来ないからとて、早計にも神なしと言ふのは、

自分で物を見る目も考へる力もなく、専ら他人の説を聞く外に能

のない凡人の浅墓さである。偉人は他人の説に満足できねば自分で観

察する、思考する。其独創の力あるが故の悩みを持つ私のショウさ

んである。(後略)

 

 この言葉はショーと別れて20日ほど後の3月27、国際連盟脱退に

至る直前、吉田長祥が属していた大阪のクラブが午餐会に師団参謀長を

招いて行った時局講演での彼の質問を思い出させる。満州国独立と国際

連盟脱退の後に来るものという講演が終った後、「質問」と彼は手を挙げ

て、参謀長に正対し、「もし軍の行動の根本にまことの『愛』がなければ、

すべての努力は徒労に終るのではないか」と問うた。それは彼の絶頂期

であった。

 その2年後の1935年夏に次女が喀血し、半年ほどして療養所に入った

後、四女が肋膜炎に罹り、学校を休むようになった。この頃から、吉田

長祥の信仰が揺らぎ始める。人間は罪人であるというキリスト教の教え

に疑いを持ち、やがて人間は「正しい神の子」であり、「水晶のようなも

の」であるとする新興宗教に帰依した。紙数の関係で詳しく述べること

ができないが、「背教」、「冬の旅」を書きながら作者阪田寛夫は、岳父

の変節を、ショーのように、「他人の説に満足できねば自分で観察する、思

考する」人のものと考えるようになったのだ。