工藤好美と佐伯市

 業績故郷に帰る

  小野和人

 

 

 I 工藤先生のご業績

 

  故工藤好美教授(18981992)が残された出版物などの資料

 を先日拝見させていただきました。その文献資料は大分県の佐伯(さいき)

 市教育委員会の中に収められていましたご遺族が同市に寄贈な

 されたのでしたけれども職員の中に文学関係者がいないために

 その中身がよくわからない。解説文を書いて欲しいと言う依頼が

 私にきたので私は大分に生まれ今も大分に住んでいます。

 伯市とは大分県の最南端で、豊後水道に面した漁港を中心とした

 明るい土地で、工藤先生の郷里はここでした。以下はその時提出

 した解説文に基づいて、同先生の概要をごく簡単に解説してみよ

 うと思います。先生のご業績はいずれも大変貴重なもので、一個

 人の業績としてだけでなく、広く日本における欧米文学研究を物

 語っています。

 工藤先生は、旧制五高の医学コースから方針を変えて早稲田大

学の英文科を卒業されました。その時の卒業論文が、19世紀イギ

リスの思想家・文人のウォルター・ペイター(18391894)を対

象としたものでした。その研究が卓越した出来栄えであったので

出版されました。それが『ウォルター・ペイター』(1927)でし

た。ペイターの文体でペイターを語った名著とされています。さ

らにペイターの小説『享楽主義者マリウス』(1926-27)、『ペイタ

ー短編集』(1930)などの翻訳を出版されました。

ペイターは、広くヨーロッパの文芸思想にくわしい作家でした。

ヨーロッパの文化史の中心となった思想、すなわち古代ギリシャ

からのヘレニズム思想と、古代ユダヤ教やキリスト教に基づくヘ

ブライズム思想の双方について、深く研究し、それを作品の材料

や主題として使用しました。

 それで、ペイターの著作を読む人々にとっては、それが即ヨー

ロッパの文化史や文芸思想を学ぶ好機会となりました。工藤先生

はご研究の出発点として、極めて適切な人物を選ばれたのでした。

学び甲斐がある重要な人物でした。

 工藤先生は、ペイター研究をご自身の研究と著作の根幹とされ

ました。佐伯市に保管されている多くの資料は、先生の英文学や

ヨーロッパ文学研究の全成果が含まれています。それらを一堂に

拝見すると、根幹になったのがペイター研究で、そこから派生し

た、実り豊かな果実があったのが分かります。

 日本文学にも造詣が深いお方でした。『日本詩歌論』という著書

も同市に保管されています。しばしば比較文学という手法を用い

られて、日本文学と外国文学を比較されて、万葉集の反歌とソネ

ットの結句が照応しているという説も立てられ、坪内逍遥などの

賛同を得られました。先生がいかに幅広く文学研究に取り組まれ

たかが偲ばれます。

 戦後になると、先生は研究対象をアメリカの作家ヘンリー・ジ

ェイムズ(18431916)に移され、最も難解な小説と言われるジ

ェイムズ後期の傑作、『使者たち』、『鳩の翼』を翻訳、出版されま

した。

 ジェイムズの作品は、主に主人公の心理や意識の動きを把握し、

描写したものです。出来事や事件を中心に書くのではなく、その

出来事や事件がいかに登場人物たちの心に反映し、その心を動か

してゆくかを追求するものです。それゆえにジェイムズの作品の

持つ特徴や傾向は、近代・現代文学のありかたを導いたものとし

て重要視されています。いわゆるモダニズムの文学の根幹をなし

ています。人間の意識は、途中で区切れるものではなく、際限な

く流れるように続いてゆきます。文学でも、それを「意識の流れ」

として表現しています。工藤先生は、このような発想を導いたジ

ェイムズの作品を翻訳、紹介し、戦後の新たな文学の研究に貢献

されました。実は戦前に取り組まれていたウォルター・ペイター

が、すでに意識の流れという要素を把握し、それを作品に反映さ

せました。そのことを工藤先生は察知され、ペイターをジェイム

ズの研究にも結びつけられました。

 佐伯市に保管されている資料には、先生のご自身のことやお家

でのご生活を記したものが含まれています。恩師の土居光知先生

(東北大学名誉教授)との親しい交流を語っている書簡など、先

生のプライベートな面を知ることのできる貴重な文献があります。

土居先生から工藤先生への書簡の一部は、風呂本武敏編『土居光

知 工藤好美氏宛書簡集』(1998)となって公開されました。

 工藤先生は戦前、戦後と長期間に亘って、しかも94年の長いご

生涯の最後まで、ご研究とご出版に休みなく活躍されました。そ

の分野は単に英文学のみでなく、日本文学さらに世界文学に及び、

その世代ならではの大きいスケールの研究者でした。出発がペイ

ターだったのが大きく、また、とりわけ故郷にゆかりがある国内

の文人に親しまれたのが大きく、さらにまた、土居光知や台北時

代の友人島田謹二などとの交流が大きかったと思われます。

 

 II 工藤先生のお人柄

 

  工藤先生は、戦前は台湾の台北大学の英文科の助教授・教授を

 務め、同僚だった島田謹二、矢野峰人らと一緒に研鑽を重ねられ

 ました。戦争末期に帰国され、戦後は名古屋大学の教授、文学部

 長を務め、その後、神戸大学の教授となり、奈良女子大学教授も

 兼務されました。さらに、京都大学教授を4年間務め、国立大で

 の定年を迎えられました。

 実は私は、工藤先生の定年の年とその1年前の年、2年間に亘

ってご講義を受講しました。英文科の学生として、2年と3年の

折でした。一番印象に残っていますのは、「英文学史概論」という

講義です。

 先生は小柄で、澄んだよく透るお声で講義されました。大教室

だったのですが、マイクの必要はなかったのです。黒板に板書さ

れる英字がきれいで、配置が整然としているので感心しました。

講義では、英文学の思想や特徴を明快に丁寧に説明してゆかれま

した。言葉を大事にされ、言葉を選ばれて、結果として言葉数が

少ない、まるで俳句を重ねたようなお話しぶりでした。このよう

なスタイルの授業に若いときに接したのは幸運でした。今度拝見

した工藤先生の資料には、著作と翻訳の直筆原稿が数多くみられ

ますが、いずれも整然としたもので、書き直した部分が全くない

ものもあり、原稿自体がまるで美術品のようでした。きっちりし

た授業のスタイルはこのこととも関係があったのでしょう。お人

柄と心がけが感じられました。授業を聴講した多くの学生がそれ

らを感じとっていました。

 英国のロマン主義を説明された折に、先生は日本文学における

ロマン主義にも触れられ、一例として、国木田独歩のことを話さ

れました。先生の頭の中では郷里への懐かしい思いを込めて話さ

れたと思われます。独歩は英語と数学の教師として佐伯に赴任し

ていた頃がありました。当時の私は独歩と先生の佐伯とのつなが

りなど知りませんでしたが。

 あるときその授業の受講生が先生に向かって質問しました。「自

分に文学方面の才能があるかないか、どうやったら見分けられま

すか」という問いでした。先生はちょっと思案され、「俳句をいく

つか詠んでみるとよい、俳句が面白いと思えるならば文学の才能

がある」と言われました。このとき先生には、先生が親しかった

俳人山頭火への思いがあったと推測されます。山頭火は佐伯をよ

く訪れていました。佐伯で亡くなった同先生の妹さんに、お経を

上げにやってこられたそうです。  

 独歩にしても山頭火にしても、先生は日本の文人を、とりわけ

故郷とのつながりがある日本の文人を、大事になされました。そ

れと同時に、日本の文人を世界の文学の中でとらえようとされま

した。

  定年でご退官後も、青山学院大学や東北学院大学等に務められ

 ました。その頃もまだ登山やスキーも楽しまれたそうです。台北

 大学の頃のことも仄聞しています。先生は運動神経が抜群で、ピ

 ンポンが学生たちの誰よりもお上手だったとのことです。

 スポーツがお得意だったことは、先生を知るうえで大きなこと

だったかもしれません。

 

 III 資料・文献の保管について

 

 佐伯市はこれまでに、国木田独歩と種田山頭火の資料を集めて

こられました。今回工藤先生の資料が寄贈されたのは結構なこと

でした。工藤先生は山頭火の友人であられました。また、国木田

独歩にも親しまれて独歩を論じた文章がおありでした。工藤好美

という英文学者がいた、しかも資料が独歩と山頭火の資料と並ん

で佐伯市に保管されている、大きな英文学者だった。このことは、

佐伯市にとってだけでなく、後進の今日の英米文学者にとっても、

意味がある出来事だったのではないでしょうか。

  最後に私自身のことを少し添えさせていただきます。大学の修

 士課程を終了後、長崎大、広島大、九州大、西南女学院大学に英

 語教師として勤務いたしました。九大が一番長くて26年間務め

 ました。今回ご縁があって、工藤先生のような大きい学者のこと

 をごく簡単ですがご説明することができました。このような機会

 に恵まれましたことをありがたく思っている次第です。

 

 

 (小野和人先生はこのご文章を寄稿されたのち4月下旬、逝去な

 さいました。大阪洋書編集部注)