「キチジロー参上」―阪田寛夫と遠藤周作―

 河崎良二

 

 

 ここ数年、長く勤めた帝塚山学院大学と関わりのある作家阪田寛

 夫の小説を読んでいる。阪田寛夫は芥川賞、毎日出版文化賞、川

 端康成文学賞などを受けた優れた作家だが、残念ながら広く読ま

 れてはいない。原因の一つは大衆受けする恋愛ものでも、青春も

 のでもなく、絵画で言えば水彩画の、柔らかで、温かく、朦朧と

 した感じの作品が多いからかもしれない。長編評伝『わが小林一

 三』を別にすれば、ほとんどの登場人物が繊細で、優しく、社会

 的成功とは無縁な世界で生きている。それが阪田寛夫の求めた世

 界なのだろう。

 しかし、阪田寛夫と聞けば、「サッちゃん」、「おなかのへるう

た」などの童謡を思い出す人が多いだろう。次女が宝塚歌劇のス

ター大浦みずきだったので、宝塚歌劇についてのエッセイを読ん

だことのある人もいるだろう。そこから生まれる阪田寛夫のイメ

ージは、明るく、元気で、華やかな世界が好きな人ということに

なる。ところが実際は、幼い頃から、家では弱虫と言われ、自分

でも意気地なしと認めていた。印刷会社社長の次男として生まれ、

東大卒、朝日放送社員と、世間的には順風満帆と思われる人生を

歩んでいるのだが、心の底にコンプレックスを抱えていた。もち

ろん誰にでも二面性はあるのだが、阪田寛夫の場合、華やかさや

元気の良さは童謡や歌曲の仕事に活かされ、コンプレックスは小

説を書かせる原動力となったように思う。では、何に対するコン

プレックスなのか。それはどうやらキリスト教と関りがあるよう

なのだ。その意味では、キリスト教という洋服を着せられた遠藤

周作に似ている。

 阪田寛夫は熱心なプロテスタントの家庭に生まれ、中学時代に

兄も姉も洗礼を受けていたことから、半ば義務として洗礼を受け

た。1939年、14歳の時のことである。遠藤周作は、離婚して孤

独であった母親がカトリックの洗礼を受けた後すぐに、母親を喜

ばそうと兄と共に洗礼を受けた。1935年、12歳の時のことであ

る。二人がキリスト教徒になったのは、1931年の満州事変以来、

国家

 主義の風潮が強くなっていた時代で、キリスト教徒への眼差しは、

 1937年の盧溝橋事件の勃発による戦争の拡大で一層厳しくなっ

 ていた。阪田寛夫も遠藤周作も、非国民という言葉を浴びせられ

 た。そのことが中学生の若く、柔らかな精神を歪め、押しつぶし

 てしまったことは十分考えられる。非国民と指弾する世間に対し

 て、遠藤は冗談を言って煙に巻いたが、阪田はほとんどの場合隠

 し通そうとした。

 もちろん反応は信者によって、信仰の強さによって異なる。と

ころが、二人はともに半ば義務的に、あるいは親への配慮から洗

礼を受けたのだった。阪田寛夫は20代半ば以降、ほとんど教会

に行かなかった。しかし、求められれば、教会のためにエッセイ

を書いた。1970年の大阪万博の際にはプロテスタント代表として、

カトリックの代表であった遠藤周作、三浦朱門と共にキリスト教

館の創設に努力した。1987年の『聖書 新共同訳』出版の際には、

プロテスタントの作家として、カトリックの作家小川国夫と共に

訳語の監修に加わった。小説としては1975年の「背教」、77年の

「花陵」、86年の「バルトと蕎麦の花」を始めとするキリスト教

信仰に関する作品があり、エッセイとしては81年の『燭台つき

のピアノ』、98年の『讃美歌・こころの(うた)2003年の『受けた

もの 伝えたいもの』等、静かだが、確かな信仰を感じさせる作

品がある。ところが、それら全ての作品に一貫しているのは、自

分はダメな信者である、という意識である。

 遠藤周作も自身をキリスト教という服を無理やり着せられた

信者、性根の坐らない弱い信者と考えていた。しかし1950年に

フランスに留学し、西洋のキリスト教が自分に合わないことを実

感して以降、阪田寛夫とは反対に、日本人にとってのカトリック

信仰とは何かを問い続け、独自の考えを発表し続けた。遠藤周作

が求めたのは、日本人にとっての、中でも弱者にとってのキリス

ト教であった。資質の近い阪田寛夫には遠藤周作の仕事がよく分

っていた。文芸誌「海」19798月号のエッセイ「遠藤さんから

教わったこと」に次のように書いている。

 

 私は遠藤氏の大きな功績の一つは、踏絵を踏む方の側から切

 支丹を描いたことだと思う。明治四十年に北原白秋が与謝野

 鉄幹、吉井勇、木下杢太郎らを天草島原へ案内したのを皮切

 りに「邪宗門」をはじめとする「南蛮」趣味の伝統ができた

 が、切支丹を二枚目の美男美女の殉教絵図といった扱いから、

 自分の中の問題へと完全に転回させたのは遠藤氏であろう。

 そのことは、イエスを犬のように無力な男として描く筆と、

 私の中では重なってきた。

 

 キリスト教が弾圧されていた時代の切支丹と潜入した司祭を

描いた小説『沈黙』に遠藤周作の考えがはっきり述べられている。

踏み絵を踏むように強要された司祭ロドリゴが、「踏むがよい」と

いうイエスの言葉を聞くところである。その場面には様々な解釈

がなされているが、私は『遠藤周作 その人生と「沈黙」の真実』

の著者山根道公氏の考えに賛同する。

 

 ロドリゴは、踏絵を踏む痛みのなかでその痛みを共に分ちあ

 ってくれるキリストと出会う。そしてその後は、弱さゆえに

 踏絵を踏んでしまったキチジローの痛みを理解し、その痛み

 を共に分かちあうことのできる司祭として、そうしたキチジ

 ローのように踏絵を踏む痛みを抱えて生きる日本人信徒との

 新たな連帯意識をもつに至ったのであるといえよう。

 

  私がこの考えに賛同するのは、遠藤周作自身が『沈黙』執筆後

 に、ロドリゴのように周りの人たちの痛みを分かちあい、「連帯意

 識をもつ」ようになったと思うからである。上述の著書の年譜に

 よると、最初の切支丹小説「最後の殉教者」を発表した翌1960

 年4月、肺結核再発で東大伝染病研究所病院に入院したが、回復

 せず、12月に慶応義塾大学病院に転院した。翌年に二度の手術を

 受け、6月に一時退院した。しかし9月に再入院し、死と向き合

 う生活を余儀なくされる。その中で切支丹に関する書物を読み始

 める。「寝たきりになるよりはと、危険率の高い三度目の手術を申

 し出る。(中略)手術は六時間にもおよび、一度は心臓が停止した

 が、成功する。長い入院生活の苦しみの同伴者となっていた九官

 鳥が手術中に身代わりのように死ぬ」。九官鳥が身代わりとなって

 死んだという思いは、遠藤周作の心に深く刻まれた。1993年の小

  説『深い河』にほぼそのままの形で描かれていることからもその

 思いの強さが分る。遠藤周作が、神は存在ではなく働きなのだ、

 神は沈黙しているのではない、という確信を持って、22カ月

 に及ぶ入院生活を終えたのは1962年5月、39歳の時である。

 退院した翌年には、代父として三浦朱門の洗礼に立ち合った。

69年にも劇作家矢代静一の洗礼に代父として立ち合った。取材旅

行にも活発に出かけた。三浦朱門、フランス留学以来の友人であ

るカトリック司祭井上洋治と一緒に長崎を旅した。 66年に小説

『沈黙』を出版。68年から73年まで、『イエスの生涯』として結

実する聖書研究を始め、毎月「聖書物語」を連載した。69年には

新約聖書の背景を探るためにイスラエルに旅した。退院後の精力

的な執筆活動を見ると、神の力が遠藤周作を通して働いていたよ

うに思える。

 阪田寛夫が遠藤周作に会ったのはこの時期である。1970年の大

阪万博で、世界でも初めてのカトリックとプロテスタントとの合

同事業であるキリスト教館を創ることになり、二人は共通の友人

である三浦朱門と共に、そのプロデューサーを依頼されたのであ

る。その準備のために1年半ほどの間、月に1度会合が開かれた。

万博は703月に始まった。4月半ばに遠藤周作は2度目のイス

ラエルへの取材旅行に阪田寛夫を誘った。同行者は遠藤周作の妻、

矢代静一夫妻、井上洋治で、皆熱心なカトリックであった。阪田

寛夫はその旅のことをエッセイ「遠藤さんにだまされたこと」(

藤周作文学全集』第十巻「月報」、2000)に書いている。

 エルサレムからガリラヤに向う途中、車の中で二人だけになっ

た時、遠藤周作が阪田寛夫に声をかけた。「いったい君は、なんで

エルサレムへ来たんや」。「きみはキリストの教えを、信じておら

んわけではないんやろ?」阪田寛夫は45歳になっていたが、イ

スラエルに来て初めて、「自分がキリストの教えについて何も知ら

なかったことを痛感して意気銷沈していた」。遠藤周作はその様子

を見て心配していたのだ。しかし、意気消沈していた阪田寛夫に

は答える言葉がなかった。「それが、あまり信じてもいないわけで

して……」「よく考えてみると、やっぱり、ぜんぜん信じていなか

ったです」と答えざるをえなかった。遠藤周作は諦めなかった。

「ほかのことはみな忘れていい。きみが死ぬ時のことを考えてみ

い。そのとき君は、キリストの復活のことを思わないか?」「死ぬ

時が来なければ、今の所はやっぱり……」と阪田寛夫はお茶を濁

す。「きみはキツネの嫁入りだな」「雨が降ってるのやら、陽が照

ってるのやら、さっぱりわからん」。遠藤周作は匙を投げたように

言ったが、しばらくして訊いた。「ところで今晩きみんとこへ、キ

リストが現れたらどうする?信仰するか?」

 阪田寛夫が母の死を描いた短編「土の器」を発表したのはそ

れから4年後の197410月である。その作品で阪田寛夫は芥川

賞を受賞する。小説「土の器」で最も重要なところは、癌の痛み

を祈ることによって耐えてきた母を徹夜で介護した後、もうキリ

スト教の悪口を言いませんから母の苦しみを和らげてください、

と神に祈るところである。キリスト教への態度を変えさせたのは、

「土の器」を書きあぐねていた時に、高知高校時代の友人から、

一年先輩であった池田浩平の著書『運命と摂理』が送られてきた

ことだった。池田浩平は、キリスト教信仰と国家への忠誠との間

で引き裂かれた思いを出征前に綴った。池田浩平は応召後、しば

らくして病死した。その書を読むことで、阪田寛夫は熱心なキリ

スト教徒であった母を理解し、神に祈った。遠藤周作が4年前に

イスラエルへの旅に誘い、信仰について問いただしたことが、心

の奥深くで阪田寛夫を動かしていたのではないだろうか。

 阪田寛夫は『讃美歌 こころの詩』所収のエッセイで遠藤周作

との交友を書いている。それによると、イスラエルから帰った後、

遠藤周作は「霊の会」という会合を開き、阪田寛夫を誘った。そ

れは後にカトリックとプロテスタントが各界の著名人を交えて交

流する「キリスト教芸術センター」として遠藤周作が亡くなるま

で続いた。阪田寛夫が最後に遠藤周作に会ったのも、遠藤周作が

亡くなる1年前のキリスト教芸術センターでの集まりであった。

阪田寛夫と遠藤周作との交友は四半世紀も続いていた。

    遠藤周作が亡くなって1年後の命日、1997929日に記念

 の会が開かれた。千名近い人が遠藤周作の写真の足許に献花をす

 るために長い列を作った。阪田寛夫はその列の最後に並んで献花

 をし、お礼とお詫びを言った。「おわびというのは、私の中途半端

 なキリスト教信仰で遠藤さんに歯がゆい思いをさせたことです」。

 阪田寛夫はそのエッセイを「キチジロー参上」と題した。