遠藤周作の故郷

 河崎良二

 

   先日、数年探していた遠藤周作が少年時代を過ごした宝塚市仁

  川の旧宅の場所がわかった。細川正義関西学院大学名誉教授に教

  えていただいた。NHKカルチャー西宮教室で仁川を舞台とした

  遠藤周作の短篇「黄色い人」を取り上げる講座があり、講師が細

  川先生だった。知らない方だったが、ネットで調べると遠藤周作

  についての講義を何度もしておられた。直感的に、遠藤周作の旧

  宅について教えていただけると思った。11月初め、講義に出ると、

  驚いたことに旧宅の場所を示した地図が資料の中にあった。

   講義の後、旧宅を見つけられた経緯を伺った。すると先生は、

  関西学院大学に赴任してから30年近く探していたが見つからな

  かった。ところがつい最近、遠藤周作の母郁からヴァイオリンを

  習っていた婦人が見つかって、その方に案内してもらった。仁川

  月見ヶ丘5丁目で間違いありません、と言われた。行ってみると、

  阪急仁川駅の西側にある弁天池から80メートルほど離れたとこ

  ろで、思っていたより池から離れていた。

  遠藤周作の旧宅を探し始めたのは数年前にエッセイ「仁川村の

こと」を読んでからである。短篇「黄色い人」が書かれた翌年の

1956623日の「大阪新聞」に掲載されたものだが、『遠藤

周作による遠藤周作』というエッセイ集に転載されていた。そこ

に、「ぼくの住んでいた家は仁川の弁天池という大きな池のすぐ近

くにあって、その頃は、あたり一面に葦の芽が生え、初夏の夜な

どは螢がとびかっていたものである」と書かれていた。私は弁天

池から歩いて20分ほどの関西学院前に住んでいるので、その辺

りの様子は分かっていた。

  遠藤周作が仁川に移ってきたのは昭和14年である。西宮市立

郷土資料館と宝塚市市史資料室にある昭和10年の地図を調べる

と、弁天池の山側に一本の道が描かれていた。昭和20年代の地

図はなかったが、昭和31年の地図にも道が一本だけ描かれてい

た。つまり弁天池の山側は昭和の初めに開発が始まったが、それ

以後昭和30年までそれ以上の開発がなされていなかったことに

なる。

  それなら、池に近い1丁目か反対側の4丁目に違いない。そう

思って、弁天池の近くに古くからあるパン屋や喫茶店に入って、

居合わせた人たちに聞いてみた。しかし、誰も遠藤周作がいたこ

とを知らなかった。喫茶店の主人は昭和30年代初めに宅地開発

が始まった時に土地を買ったと言う。遠藤周作と母郁が東京に移

ってから10年近く後のことである。

  ここで遅ればせながら、遠藤周作が仁川に住むまでの経過を簡

単に書いておこう。母郁は1926年に、夫の転勤にともなって5

歳の正介と3歳の周作を連れて東京から満州大連に移った。しか

し夫に愛人ができ、離婚が決定的となり、1933年に帰国して神戸

市の姉の家に同居した後、西宮市夙川に移った。熱心なカトリッ

ク教徒であった姉の勧めで、二人の子どもを連れて、夙川カトリ

ック教会に通った。それと同時に、現・東京芸術大学卒でヴァイ

オリニストであった郁は、家で音楽のレッスンを始めた。それが

きっかけだったのだろう、1935年に、仁川駅の次の小林駅の山側

にある小林聖心女子学院の音楽教師になった。

  母郁は勤め始めて一月後の5月、学院の聖堂で洗礼を受けた。

翌月には、正介と周作が夙川カトリック教会で洗礼を受けた。母

を喜ばせるための受洗だったが、周作は一時期本気で神父になろ

と考えて、朝のミサに通った。1939年、周作が灘中学4年生で

三高の受験に失敗した年の春、郁と周作は武庫郡良元村仁川月見

ヶ丘に移った。兄は2年前に第一高等学校に入り、東京にいた。

郁は周作が慶応義塾大学予科に進んだ1943年以後も仁川に残り、

1948年まで小林聖心女子学院に勤めた。

  日本文学の研究者でもないのに遠藤周作の旧宅にこだわった

のは、帝塚山派文学学会の文学散歩を中心とした公開講座を引き

受けたからである。今回で2回目である。前回は阪田寛夫の短篇

「吉野通」(梶井基次郎の終焉の地を探す話)を読み、文学散歩で

は阪堺電車の東天下茶屋駅から阿倍野区王子町まで歩いた。今回

は「阪田寛夫と遠藤周作の仁川」について話し、来年2月に仁川

から小林まで歩く。遠藤周作の旧宅はその目玉なのだ。幸い旧宅

の場所は分かった。後は、遠藤周作にとって仁川はどのような場

所なのかである。

  弁天池近くの喫茶店で話していて驚いたのは、遠藤周作の故郷

は長崎でしょうという人が多かったことだ。『沈黙』を初めとする

隠れ切支丹を描いた小説の印象がそれだけ強い証拠である。私は

まだ訪れたことがないのだが、長崎市東出津町には長崎市遠藤周

作文学館がある。ホームページを見ると、2000年に「外海町立遠

藤周作文学館」として始まったとある。外海地区は「キリシタン

の里としても知られており、遠藤文学の原点と目される小説『沈

黙』の舞台となった場所」であった。『遠藤周作文学全集』第15

巻「月報」にある順子夫人の「文学館設立まで」を読むと、「出津

の高台から眼下に広がる眺望絶佳の海を眺めて『ああ、ここは神

様が僕の為に取っておいて下さった場所だね』と主人が申してい

たと伺った事も、外海町に決めた大きな理由でした」と書かれて

いる。

  順子夫人の文には、「文学館設立の話は何と、主人の通夜の日

に聖イグナチオ教会の控室で早くも始まりました」とある。遠藤

周作が73歳で亡くなったのは1996929日である。102

日に東京四谷の聖イグナチオ教会で葬儀ミサ、告別式が執り行わ

れた。参列者は4千人であった、と年譜にある。その時に前長崎

市長から「お墓は長崎に」との提案があった。「長崎は確かに主人

にとっては第二の故郷と言うべき土地でした」。しかし「母や兄が

眠る府中の墓地にときめておりましたのでお断りをしました」。

「それでは文学館を」という話になったのである。遠藤周作にと

って長崎が重要な場所であることは誰も否定できない。しかし、

それは第二の故郷なのである。では、第一の故郷はどこなのだろ

う。

  遠藤周作は1923年に東京巣鴨に生れた。その後は既に書いた

通り、1926年に満州大連に移り、1933年に日本に戻り、神戸、

西宮、宝塚に住む。1940年、41年と旧制高校受験に失敗し、41

年に上智大学予科に入学する。しかし上智に通ったのは後期のみ

で、19422月には退学し、仁川に戻っている。その年も旧制高

校への受験に失敗する。母に経済的負担をかけられないと兄に相

談し、再婚した妻のいる東京の父の家に住むことになった。この

時、周作は「母を裏切ったといううしろめたさを日々感じ」た、

と山根道弘氏作成の年譜に書かれている。翌1943年、周作は慶

應義塾大学文学部予科に入学する。医学部へ進学するよう強要し

た父の家を出て、カトリック学生寮に入る。

  こうしてみると、遠藤周作の故郷は大連、西宮市夙川、宝塚市

仁川月見ヶ丘のいずれかだろう。遠藤周作と仁川に関わる様々な

資料を探しているうちに興味深い日記を見つけた。「三田文学」

8067号に掲載された「未発表日記140枚 ひとつの小説がで

きるまでの忘備ノート」である。1982122日から1983

1231日(遠藤周作59歳から60歳)までの日記である。

 

(一九八三年)十二月九日(金)

 一時に大阪空港に着く。誰にも迎えてもらわず一人でタク

シーに心はずませて乗ったのは今日と明日と、大阪近辺の女

子大で講演という義務はあるけれども、その他の時間を利用

して自分の故郷、仁川や宝塚を歩けるという悦びがあったか

らだ。

 宝塚ホテルにチェック・イン。部屋に入り窓から外を見る

と懐かしい山々が拡がっている。かつて仁川の部屋の窓から

毎日眺め、憧れを抱いたあの山々である。(後略)

十二月十日(土)

 朝の時間を利用してグリルで珈琲を飲んだあと仁川まで電

車で行く。そしてまた再び仁川の家を見に行く。駅から仁川

までの道を、私は母と兄とが一緒に歩いているような思いで

歩いた。私のかつての家は四つの家に分割されて跡かたもな

くなっていた(後略)。

 

   まるで秘め事を書くかのように、どきどき、わくわくしている

  心の動きが手に取るように分かる。遠藤周作はこの日記に驚くほ

  ど素直に思いを吐露している。母を喜ばせるためだけに受洗した

  遠藤周作にとって、キリスト教が「合わない洋服」であったこと

  はよく知られている。彼はそれを何度も脱ごうとした。先の引用

  の二年近く前、1982225日の日記の「私の祈り」には、「主

  よ、母があなたを信じましたので、私も母に賭けます。/兄があ

  なたを信じようとして死んだのですから、私も兄に見ならいます。

  (略)/夜、私はこの祈りを祈った。六十歳にちかい老人の祈り

  だ」と書かれている。

  「未発表日記」を読んだ時、遠藤周作の故郷は仁川だと思った。

  しかし、そう断言するには、兄と仁川とが繋がっていなければな

  らない。埋葬場所を決める時、夫人が「母や兄が眠る」墓地にと

  述べておられたように、周作にとって母と兄は一つのものなのだ。

  ところが、周作が母と仁川に移った時、秀才であった正介は既に

  灘中学から一高に進んでいた。その後は、東京帝国大学、逓信省、

  そして海軍入隊であった。エッセイ「仁川村のこと」には、兄の

  ことは出ていない。

  これ以上調べようがない、と思った。ところが、試しに図書館

の蔵書を検索して驚いた。正介が56歳の若さで亡くなった翌

1978年に、追悼・遺稿集『遠藤正介』が出ていた。急いで図書館

に行き、遺稿集を手にして、びっくりした。674頁もある分厚い

本だった。電電公社理事であったとは言え、総勢107人、電電公

社総裁から労働組合事務局長、棋聖大竹英雄、「ねむの木学園」の

宮城まり子など多方面の人々から追悼文が寄せられていた。遺稿

は対談を含めて260以上あった。正介と仁川の関りを示す記述を

探すと、あった。

  シンガポールで終戦を迎えた正介は、十か月に及ぶ抑留生活を

経て、19465月に復員。6月末に大阪逓信局に勤務し、翌年結

婚して仁川に新居を構えた。正介も、母がいる仁川に住みたかっ

たのだ。そのことは正介のエッセイ「万博と両陛下並びに浩宮様」

を読めばわかる。「死んだ母は、私達兄弟が天皇陛下にお目通り出

来ることを成育の唯一の目標においたのではないかとさえ思う」

と正介は書く。それゆえ、人気作家となった弟が先に観桜会に招

かれ、その写真を「母の霊前に得意気に供えたとき、私は何か大

変な親不孝者になってしまったような気がした」。ところが、電電

公社万国博覧会運営本部長となった時、両陛下、皇太子をはじめ

皇族の人たちを案内する機会を得た。「大袈裟にいうと人生という

野球で代打満塁ホーマーを打ったような気持なのである」。

  「わが愚弟を語る」、「顔色なし“賢兄の座〟」など弟周作に関

わるエッセイを読むと、周作が中学四年で三高を受けた時はもち

ろん、次の年も、その次の年も正介は周作の受験に付き添った。

後に電電公社理事と人気作家となっても、兄弟は月に一度飲みに

行っていた。

 

  三年間浪人生活を送ったところだが、母と暮らした仁川、正介

が時々戻っていた仁川こそ遠藤周作の故郷なのである。