花も嵐も比叡山

 小野和人

                         

 

  比叡山は、日光やナポリほどではなくても、一生に一度は行っ

てみたい山である。大学二年の折に、大分県の出身者で同じ大学

の同じ学年者の集いがあった。それも比叡山にゆくという集いで

あった。それで十人ほどのメンバーで出かけ、出町柳から叡山電

車に乗り、さらに八瀬からケーブルカーで山頂に着いた。延暦寺

に参詣したことは記憶しているが、その広い境内のどこを見たの

かは忘れてしまった。ただどこかの祭壇にとてつもなく大きく長

い蝋燭がともされており、炎が微風に揺れていたのを思い出す。

昼間のことだったのにその場面は、今、私の心の中では暗夜のよ

うになり、辺りは暮れて見えず、あの炎のゆらぎのみが目に浮か

ぶのである。記憶が定かでないのは、大勢でにぎやかに歓談して

たため、注意が散漫になったせいでもあろう。

  ただ帰途にケーブルを降りて八瀬の高野川の畔で休憩した

  ことははっきりと覚えている。緋色の毛氈が縁台に敷かれた茶

  屋に立ち寄ったのである。甘いものの店であった。私はもう煙

  草を吸い始めており、味覚が劣化していたのであろう、おはぎ

  やぜんざいなどは苦手になっていた。縁台に座ったことは確か

  である。でもあの時何を食べたかは思いだせない。甘いものが

  苦手になっていたのに食べられるものがあったのだろうか。思

  い出そうとしても駄目である。そんな些細なことが人生上の謎

  となっていつまでもつきまとうのだった。

  こうして大学時代に二、三度比叡山に乗り物で出かけたが、

歩いて登山したことはなかった。その後登山を趣味とするよう

になった。だが比叡には縁がなかった。それが心残りで、長年

宿題をし残した気分であった。それで平成二三年秋、京都外国

語大学での学会の翌朝、ついに出発した。卒業して約五十年後

のことである。出町柳から叡電に乗り、修学院駅で下車。地図

を頭に入れておいたつもりが早速道に迷う。道はあちこちにあ

り、人の流れも絶えない。高野川の橋の上で空を見まわすと見

慣れた比叡がぽっかり浮かんで見えた。

   その方向に進みだすとルートに乗った。けれども修学院離宮

  の辺で再度迷った。離宮の柵に沿って進み、その外苑を一回り

  してしまった。もうそれで疲れが出てくる。離宮から普通の道

  に出ると、民家の軒先で花の鉢に水をやっている人がいた。

  楚々たる姿で、その家の若奥さんか娘さんであろう。声をかけ

  て登山道を問うと、にこやかに教えてくれた。右手の細道を進

  むようにと。これで気分が良くなった。出だしは悪かったが、

  縁起直しで、今後はうまくゆくと思われた。でも、実際にそう

  うまくはいかなかった。

  その細道はすぐ山道となったが、本当に細く、草深い。比叡

への旧道のように思われた。途中で新たな赤テープが見つかっ

た。それは下り道に沿っていた。登りでも時おり部分的に下り

になる場合はある。それで気にせずにテープに従って進む。す

ると大きな箱わなに出くわした。イノシシの捕獲用なのだろう

か。道はますます下ってゆく。下りが続いて谷になったのでや

はり道を間違えたことがわかる。引き返すと二、三十分ロスし

たことになった。

   元の箇所に戻って見回すと古い赤テープが見つかった。今度

  はそれに従うと少し広い道に出くわした。これが正式な登山道

  なのだった。杉林の中を急傾斜で進む。すると木立の中で猿が

  こちらを見つめているのに気づいた。何匹も道に沿った木々に

  おり、じっと見つめている。中には子供を抱えた母猿もいる。

  どこかにチーフの猿がいて、「飛びかかれ」と合図を発しそう

  に思われた。ぞっとしたが、相手側に別に敵意はなく、ただ好

  奇心のみのことらしい。「ほら見て、変な人間が通るよ」とい

  う感じであった。

   するとある思い出が頭をよぎった。いつのことだったか、九

  州は福岡市の姪の浜から筑前深江までJRの電車に乗った。深

  江の二条山という山に登りに行ったのである。途中で乗客たち

  がある人物を囲んでじっと見つめているのに気づいた。その人

  は座席にいたが、面長な顔立ちの若者のようだった。歌手で俳

  優の武田鉄矢氏だった。氏は黙ったままで、乗客たちの方も、

  一言も声をかけることはなく、食い入るように見つめていた。

  武田氏は、その視線に耐えかねて、かぶっていた野球帽をさら

  に顔の方に引き下ろした。

   こうして人の顔を見つめることは失礼な業である。だが相手

  は実に有名なスターである。我々は、その有名さに対し税を徴

  収するような気持で武田氏に接してしまったのであろう。見つ

  められる武田氏の立場を今の私に移し、乗客たちの立場を猿た

  ちにすると事情が分かるような気がする。私は全然有名人では

  ないから有名税をとられる心配はない。でも進化論によれば、

  こちらは猿より上の立場の人間であるから、きっと人間税を取

  られているのだろう。

  猿たちのところを通過すると、ふとある歌謡曲の一節が思い

浮かんだ。花も嵐も踏み越えてというのである。 旅の夜風

という誰もが知っているあの歌であった。『愛染かつら』とい

う昔の映画(原作の小説は、川口松太郎の『千客万来』)の主

題歌である。あの歌はちっとも私の好みではない。それでも子

供の頃から聞かされて私の脳裏に焼き付いている。認知症にな

っても忘れえないであろう。

   なぜそれが思い浮かんだのか。その歌の一番の終わりが「月

  の比叡を一人ゆく」となっているからであろう。猿の怖さを乗

  り越えたせいもあるだろう。さらに、大学卒から五十年、長い

  人生をたどってきたという感慨もある。英語も、中学生の頃か

  ら学びはじめて六十有余年となった。その間、アメリカ文学に

  取り組み、ヘンリー・ソローの作品に親しんできた。それなの

  に英語を十分マスターしたという気分になれない。まだまだ単

  なる学徒にすぎない。そして学徒のまま一生を終えるのだろう

  か。そうした思いが錯綜してくるのだった。

   さてついにケーブルカーの山頂駅の下を通過し、広場に到っ

  た。その広場で琵琶湖側の景色をはるかに見下ろし、缶ビール

  と駅弁当の昼食をとった。それからまた一登りして山頂のバス

  駐車場に到着。そこからさらに狭い舗装路を登って本当の山頂

  にたどり着いた。

  山頂はごく小さな丘、というよりは盛り土の上にある。周り

も材木を運ぶトラックが出入りしており、山頂というよりも場

末の工事現場という感じである。山頂を示す表示板も折れて半

分の長さになっている。団体登山をした人々の記念板の方がは

るかに立派で、いくつも立っている。

  所載なさにその一本を抜き取り、記載された氏名を読んでい

ると、「そんなことをしてはいけません」という険しい声がし

た。盛り土の下側で、背の高い中年男の登山者が私の方をにら

んで見上げていた。記念板を元に戻し、「こんな有名な山なの

に山頂標識が折れていますよ。もっといいものにしなければ」

と私は言った。言い訳代わりの気持だった。するとその人は私

のところまで上がってきた。山頂は狭いので入れ替わりに私は

降りた。(今日では比叡の山頂付近はきちんと整地されている

そうである。私が登った折はその工事の最中だったのであろう。

素顔のままの山頂を見たという印象が残っている。)

   さて帰りはケーブルカーが懐かしいのでそれで下った。ケー

  ブルの駅は健在だが、やはりいささか古びている。八瀬の茶店

  は昔と同じく緋の毛氈を敷いた縁台を出していた。私はもう煙

  草をやめて久しく、味覚も童心に帰り、甘いものは何でもおい

  しくいただく。茶店で一憩してゆきたかったが、一人だと緋の

  縁台に座すのも気がひける。それでそばを流れる高野川に沿っ

  て少しぶらぶらと歩いた。すると、大学生の頃、同郷の仲間と

  一緒にここへ来たことが鮮明に思い出された。そして茶店で休

  憩した折に、自分が食べたものはワラビ餅だったことが記憶に

  蘇った。黄な粉に薄く砂糖をかけた寒天のような味で、あれな

  らば甘いものが苦手でも食べられたのであろう。

   その仲間たちとは卒業後随分久しく会っていない。皆高齢者

  となり、変化しているだろう。ただ、この高野川は昔と変わら

  ず、澄んで滔々と流れている。川は要するに水の流れである。

  それなのに時の流れの影響を受けず、今も威勢よく流れている

  のが不思議に思えてくるのだった。

          (「西南の杜」第11号の文章を改訂した。)