比叡山の思い出

小野和人

 

                          

  (一)湯川博士と比叡山

   日本におけるノーベル賞受賞者の第一号である湯川秀樹博士を

  一度だけお見かけしたことがある。それも講演会の場においてで

  あった。その講演会は、湯川氏とフランス文学者の桑原武夫氏、

  ならびに政治思想家の柳田謙十郎氏の三氏によるものであった。

最初の講演者は桑原教授であったが、私にとって桑原氏は珍し

くはなかった。氏は、京大の人文科学研究所から学内非常勤で文

学部に来て、講義をされていた。教室は事務室の隣の半地下室の

中で、その教室の手前の部屋に事務室からの連絡や就職案内等の

掲示が出されており、私共学生たちは毎日のようにその場所に出

入りしていたのである。そのついでに奥の教室の方ものぞき込み、

講義の具合を一瞥するのだった。

  桑原教授の講義はフランス革命期の思想史・文化史という内容

であった。のぞき見の学生など一切気にせず、すらりとした姿で

悠々と、滔々と、自信に満ちた講義ぶりであった。自信という言

葉が顔負けするほどの威厳と落ち着きであったと思う。

  ともあれ、こうして桑原教授の姿をよく見慣れていたので、私

はずるい考えを起こし、二番目の講演者である湯川博士のところ

から聴講することにした。ところがその会場にゆく途中、親しい

友人と出くわし、しばらく立ち話に興じてしまった。それからは

たと我に返り、大学本部の階上の部屋に駆け上がると、湯川氏の

話はもう終わったところだった。万雷の拍手と共に壇上から歩み

去ってゆく丈高い姿、額の広く禿げ上がった横顔をちらりと目に

収めたのみとなった。

   それでも湯川博士のことはある程度認識できていた。昭和三三

  年から氏の自叙伝が朝日新聞紙上で連載されたからである。題名

  は『旅人』であった。氏の幼年時代から青年期にかけての叙述が

  主になっていて、あの中間子の理論が成立したところで終わって

  いたと思う。連載の始まりは私の大学一年の頃で、それを日々読

 むと、いわゆる研究者の世界が次第に眼前に開けてゆくような思

  いがして、新鮮な感銘を受けた。

   さらに昭和三八年になると、湯川氏のエッセイ集『本の中の世

  界』が岩波新書で出版された。この本は湯川氏の読書感想文の体

  裁であったが、巻末に氏のやはり若い頃の回想として「短い自叙

  伝」という章が添えられていた。それは『旅人』を簡略化したも

  のであったが、もっとくだけた調子で述べられ、いわば普段着の

  湯川氏が感じられて、味わい深かった。

   中でも氏の旧制第三高等学校時代の思い出が面白かった。用器

  画(製図)の実習の時間に、線を引くために烏口(からすぐち)

  という製図用のペンが指定された。その先端がカラスのくちばし

  に似ているのでそう呼ばれるのだが、それを使うとき、先端を鋭

  くしすぎると製図の図面が切れてささくれ立つ。逆に先端を太く

  すると引いた線から墨がにじみ出る。調節がむずかしく、湯川氏

  は何度も消しては書き直し、用紙が薄くなってしまった。すると

  教室の中を巡回していた先生が、湯川氏の用紙を取り上げて、窓

  の方にかざし、透かし見て、「おお、叡山が見える」と言ったそう

  である。実際に比叡が見えたかどうかは不明だが、まあジョーク

  だったのであろう。

   これでみると湯川氏はあまり器用ではなかったらしい。だから

  物理の研究も実験ではなく理論の方に向かったのであろう。けれ

  ども湯川氏は習字が堪能であった。『本の中の世界』には氏の色紙

  の写真が一枚添えられている。氏の自作の短歌をしたためたもの

  である。

 

 「雪ちかき比叡さゆる日々寂寥のきわみにありてわが道つきず」

 

  終戦の年、昭和二十年の暮れ、湯川氏が三八歳の頃の作という。

  敗戦の世相の混乱の中で、氏が研究者としてのあり方を吟味し、

  確認する歌であったと思われる。研究の仕事は基本的に孤独な業

  であろう。真新しいひらめきを得、独創的で真に充実した研究成

  果を挙げるためには、孤独の状況がなくてはならない。初冬の空

  に遠くそびえる比叡の孤影は、孤独な研究者である湯川氏の姿と

  重なっているといえよう。色紙の字は少し枯れた書体で、実に能

  筆である。それも単なる巧さのみならず、比叡の「寂寥」を思わ

  せるような、ゆかしく、神さびた線の流れが見て取れる。

   比叡山は京都の象徴だといってよい。その標高は八四八米で、

  山の高さとしては決して高い方ではない。けれども、京都市とい

  う盆地の東端に屹立しているのでよく目立つ。京都という海の灯

  台のようである。学会などの行き帰りの折に、列車の窓から比叡

  の縦長のような山姿を目にすると京都を思い、湯川博士のあの歌

  の色紙を思い出す。

 

  (二)英会話と比叡山

   大学年で英文科へ進んだ。当時の授業は文学の講読が中心で、

  シェイクスピアやミルトン、アメリカ文学ではメルヴィルの『白

  鯨』など、古典作品の難解な文章を正確に読み取る訓練が主にな

  された。英語会話の方は二の次という扱いであった。それでも週

  に二、三回はネイティヴスピーカーの授業があった。

  英会話・英作文演習の担当者はカナダ人の若き女性、マクリモ

ン講師であった。その授業で開口一番、「まっくりもんでございま

す」と日本語で挨拶された。ご自分の名前も日本語のように発音

されたので我々学生は面食らった。でもそれ以降はすべて英語だ

けの授業となった。先生は最初基本となる短い会話文を説明し、

その後は受講生の中から二人を選んで起立させ、基本文を踏まえ

てフリー・トーキングをさせた。ペアとなる学生を取り換えなが

ら、学生たちの英語対話が次々と続けられた。英語の上手下手は

気にされなかった。

  英作文の方は、宿題として先生の出す題名のもとに自由作文を

書かせられた。マクリモン先生は上品でしとやかなレイディに見

えたが、意外に政治好きらしく、当時流行した安保反対の学生運

動をよくテーマにされた。政治音痴の私は毎度閉口した。英語は

ともかくとしてその内容に興味が持てなかった。書く材料に困っ

て、政治運動の学生と無関心なノンポリ学生の対話という思いつ

きのみの会話文を書いたこともあった。

  英文科に進学してしばらくするとクラスの懇親会が催された。

それも比叡山へのバス旅行という形であった。ただし我々は英文

科生だから、その日は日本語でなく英語で通そう、ジャパニーズ・

プロヒビティッドでということになった。当日京阪三条のバス停

に行ってみると、クラスで十数人いるはずの者たちのうち十人程

度が集まった。比叡行きのバスに乗って早速英語を使う。昭和三

六年の時代においては、今日のように巷に多言語があふれている

わけではなく、当然ながら他の乗客たちが不審そうに見つめる。

見つめられるとあやふやな英語が益々出難くなるのだった。

  メンバーの中でも一般に都会出身の学生たちは英会話がうま

く、私のような地方の田舎出身の者は下手なように思われた。実

際田舎の者には、当時外国人に出会うことはなく、英語を使って

みる機会も全くなかった。英語はあくまでも教科科目であった。

  さてその時の仲間のAさんは特に英会話が上手で、もううまい

という段階を越えて楽々と話していた。後に彼女は、英国人でケ

ンブリッジ卒の若いエリート講師の奥さんになった。今はケンブ

リッジ在住である。Bさんも上手であったが、アメリカ人の奥さ

んとなり、ヴァージニア州に住んでいる。S君も会話に苦労はな

いようだった。毎日新聞の社員となった。外国での取材では重宝

したであろう。K君は四国の出身で、私と同様に英語では寡黙で

あった。けれども卒業後は出世して、大手の事務器製造の会社社

長となった。Y君は学業抜群で、日本語では寡黙であったが英語

では雄弁となった。母校教養部の英語教師になった。けれども75

歳、後期高齢者となった年に没した。

  でもそれははるかに遠い後の話である。学生たちの英会話を乗

せたあのバスは、山のハイウエイを延々と走り、比叡山頂に至っ

た。そして我々はその展望台に登り、広大な京都市街地をパノラ

マのように見晴らした。すると心のわだかまりが解け、英語が自

由に話せる気分となった。一時的にではあるが、私は上手下手を

意識することなく英語を使えたのだった。景色の素晴らしさが心

の枠を開放し、素直にしてくれたのであろう。

 

(「西南の杜」第11号の文章を改訂した。)