200歳になったバイロンの『ドン・ジュアン』

  東中稜代 

 

 

  今年の日本では、年号が平成から令和に改まり、特別な年に

なったが、西暦では2019年である。そしてこの年にふさわし

い記事がTimes Literary Supplementに掲載された。記事の題

名は“Isn’t it Byronic? Don Juan at 200”で、作者はTLS の副

編集者のMichael Cainesである。『ドン・ジュアン』の第1、

2巻は200年前の715日に出版され、この記事は月も同じ

2019719日に掲載された。出版から丸200年が経ったの

である。心憎い配慮である。18164月に石もて追われるごと

く、バイロンはドーヴァーを後にし、オランダ、ドイツそして

スイスを経て11月にはベネツィアに落ち着く。「イタリアのバ

イロン」の始まりである。『ドン・ジュアン』は18187月に

書き初められ、イタリア滞在中に書き続けられる。18237

月、バイロンは、ギリシャの独立戦争を援助すべく、イタリア

を離れギリシャに向う。そして18244月の寒村のミソロン

ギに命を落とす。『ドン・ジュアン』は未完に終わったが、1

8行からなるイタリアの詩形ottava rima(八行詩体)を用いた

この詩は、長さは約2000連、行数から言えば、16000行にも

及ぶ大長編詩である。

  さて評者のマイケル・ケインズ氏の手になるこの記事には、

『ドン・ジュアン』についての特に新しい観点は見当たらない

が、この風刺詩の特徴や、出版当時のイギリス社会の反応など

が、過不足なく丁寧にまとめられている。以下、ケインズ氏の

記事を参考に、バイロンの『ドン・ジュアン』の出版の経緯、

文学的特徴、そして何十年に亘る筆者とバイロンとの関わりな

どについて述べたい。

  この記事はバイロンの手紙の引用から始まる。それは、『ド

ン・ジュアン』の同じページ同じスタンザに、真面目さと滑稽

さ(grave & gay)が共存していることを批判したFrancis

Cohen対する、バイロンの返答である。因みにCohenThe

Golden Treasury1861)を編んだFrancis Palgraveの父でも

ある。バイロンの書簡(1819812日付、出版者John

Murray宛)は、“… did he [Cohen] never spill a dish of tea

over testicles in handing the cup to his charmer to the great

   shame of his nankeen breeches?”なる文章を含む、人生に起こ

  るgravegayの場面を列挙する。この書簡の中で、彼は『ド

  ン・ジュアン』のことを‘Donny Jonny’と冗談っぽく呼び、“I

   have no plan—I had no plan …”と言い切り、さらに“You are

   too earnest and eager about a work never intended to be

   serious …”であり、この詩を書く目的が“to giggle and make

   giggle”であると断言する。彼は詩の中で、‘serious laughter’

  が『ドン・ジュアン』の目的であるとも言っている。出版者の

  マリの周囲には、バイロンの作品の善し悪しを、主に政治、宗

  教そして道徳の観点から判断する、保守的なご意見番がいた。

  道徳観も違うイタリアで生活し、イタリア文学の中の滑稽叙事

  詩というジャンルに接し、独自の道を走り出したバイロンを、

  彼らは制御しようとした。しかしバイロンにはすでに確固たる

  自信があり、自説を変える気は毛頭なかった。

   バイロンの作品の中では、長年に亘って『チャイルド・ハロ

  ルドの巡礼』(Childe Harold’s Pilgrimage)が代表的な作品と

  考えられてきた。それはナポレオン戦争後のヨーロッパ大陸を、

  憂愁を抱きつつ彷徨する貴公子を描いたものだった。しかし20

  世紀になってからは、八行詩体を用いたBeppo(『ベポゥ』)、

   The Vision of Judgment(『審判の夢』)そして質量ともにその

  頂点に立つDon Juanがバイロンの最高傑作と見なされるよう

 になった。ヴァージニア・ウルフはイタリアの詩形である

   ottava rimaをバイロンが用いたことによって、“… [he] could

   write out his mood as it came to him.” と考えた。すなわち真

  面目一辺倒なromanticな調子を離れて、複雑に変化する心情

  をそのまま書き写す詩形を、バイロンが見つけたことを指摘し

  た。

  この詩を滑稽にする大きな要素は脚韻である。評者は有名な

一節、“But—Oh! ye lords of ladies intellectual, / Inform us

truly, have they not hen-peck’d you all?”を一例に挙げる。

‘intellectual ‘hen-pecked you all’’に韻を踏ませている。い

わゆるcrazy rhymeである。ottava rimaabababcc)では連

の最後の2行が韻を踏むが、バイロンは往々にして滑稽な韻を

踏ませる。高名なシェイクスピア学者でもあったAnne Barton

教授は、一行飛びのaaa bbbの脚韻も含めて、その著Byron:

Don Juan1992)の中で、バイロンのcomic rhymeについて論

評している。筆者はバートン先生のこの指摘からヒントを得て、

Don Juan’s Comic Rhymes” という題の論文(Aspects of

Byron’s Don Juan, ed. Peter Cochran, 2013に掲載)を書く学

恩を受けた。

   ケインズ氏は『ドン・ジュアン』に18世紀の小説家、ロー

  レンス・スターン(脱線)や、スモレットやフィールディング

 (ピカレスク小説の伝統)の影響を見る。その通りである。ジ

  ュアンはヨーロッパやオリエントを巡るが、その途中でナレー

  ターが臆面もなく自由に筋を離れ、筋から派生したことについ

  て喋る。したがってナレーターの ‘I’ が主人公だと言うことも

  できる。我々はバイロン自身の声をナレーターの自由な語りの

  中に聞く。『チャイルド・ハロルドの巡礼』では、主人公のハロ

  ルドとナレーターの人物像が似通いすぎて区別がつきにくかっ

  た。しかしこの詩では、ジュアンとナレーターは明確に書き分

  けられ、ナレーターは高所から森羅万象について物を言う。『ド

  ン・ジュアン』はcomic epicと言えるが、全体的な形や構造が

  あるとは思えない。ミルトンやワーズワスはそれぞれParadise

   LostThe Prelude で、無韻詩(blank verse)を使ったが、

  バイロンは、heroic coupletではなかったが、18世紀のポープ

  やスイフト流に韻に固執した。ケインズ氏はJerome J.

   McGannの次の言葉を引用する、Don Juan is the most

   important poem published in England between 1667 (when

   Paradise Lost was issued) and 1850 (when the Prelude

   finally appeared in print).”と。 シェリーはこう書いている、

   “In my opinion it contains finer poetry than has appeared in

   England since the publication of Paradise Regained.”と。

 

   さて、『ドン・ジュアン』12巻は匿名で出版され、出版者の

  ジョン・マリの名前もない。マリは1810年代にジェーン・オ

  ースティンの小説も出版している。この初版の復刻版が筆者の

  書斎にある。四つ折(Quarto)版の大冊である。Jonathan

   Wordsworthが編集した叢書、記念碑的な大事業となった

   Revolution and Romanticism, 1789-1834 に収められた一冊

  である。Lake poets (Wordsworth, Southey, Coleridge)や時の

  政治家を攻撃した献辞も省かれている。しかしこのfacsimile

  には、はっきりと“Don Juan Canto I & II 1819”なる書名があ

  る。ちょうど200年前に産声を上げたことが分かる。

   この滑稽叙事詩は、“I want a hero: an uncommon want, /

   When every year and month sends forth a new one …”で始ま

  る。バイロンはヒーローが欲しいと言う。英語ではheroは英

  雄でもあり、主人公でもある。面白い出だしである。毎年、毎

  月出てくる新しい英雄とは軍事的な英雄を指す。バイロンはそ

  ういう英雄を拒否して、若い優男のジュアンを主人公に選ぶ。

  2行目の最後にはa new oneがくるが、これは4行目のthe true

   one6行目のDon Juanと韻を踏む。読者は、英語流に「ドン・

  ジュアン」と発音することを強いられる。

  ケインズ氏は出版者のマリの1819716日付けの書簡の

一部を引用する。そこには、”Don Juan was published

yesterday and having fired the Bomb,--here I am out of the

way of the explosion.”とある。 宛先はベネツィア在住の作者

バイロンだった。マリがこの出版を爆弾と呼ぶように、『ドン・

ジュアン』は19世紀前半のイギリスでは道徳的、宗教的、政

治的な面からみて、大いなる問題を孕むと見なされたのである。

The Edinburgh Review の主幹Francis Jeffreyによれば、バ

イロンは“patriotism, valour, devotion, constancy, ambition”

を嘲笑の対象にしているという訳である。

  ではどんな筋なのか。16歳のジュアンは第一巻では人妻

Juliaと恋仲になり、それが夫に知られ、修道院へ入れられる。

ジュアンは船旅に出される。航海中に嵐に襲われ、船は漂流し、

食料はなくなり、カニバリズムに走る乗組員も出てくる。この

難破の描写を助ける資料の一つが、バイロンの祖父、ジョン・

バイロンの航海記だった。ジュアンの飼い犬のスパニエル犬は

腹を空かせた人間に食われ、彼の家庭教師のペドリロも籤引き

で食べられることになる。バイロンはこの詩の随所で、事実を、

真実を伝えると言う。天候が荒れるのも、人間が食料になるの

も自然の一面である。これはワーズワスの描く自然とはまた違

Natureの意味は簡単ではない。ジュアンは一人エーゲ海の

島に打ち上げられ、そこで島の娘ハイディに助けられ、やがて

夕陽の差す砂浜で二人の恋は成就する。2巻はここまでである。

その後、ジュアンはハーレムに行き、トルコとロシアの戦争に

参加し、ロシアに呼ばれエカテリーナ二世の愛人となる。しか

し恋が濃密すぎて病を得(腎虚か)、転地することになり、イギ

リスへ外交官として送られる。彼はイギリス上流社会の人気者

になり、恋が原因で何かが起こりそうになる。そこまで書いて、

バイロンはギリシアへ赴き、命を落とし、『ドン・ジュアン』は

未完となる。因みにドン・ファン伝説は、17世紀に活躍したス

ペインの劇作家、ティルソ・デ・モリーナ(Tirso de Molina

の『セビーリャの色事師と石の招客』に端を発し、モリエール

やモーツアルトに受け継がれていくが、いずれも主人公は女の

誘惑者である。しかしバイロンの主人公のジュアンは、恋をす

るが、彼の方から誘惑することはない。女の方が彼を求める。

 

   TLSのこの記事を知るに至ったのは、畏友櫻井正一郎氏(京

都大学名誉教授、『結句有情』や『サー・ウォルター・ローリー』

など)が、親切にも切り抜きを送って下さったからである。そ

して感想を記した筆者の返事が、大阪洋書の目にとまることと

なり、この拙文となった。すべては人と人との繋がりである。

同社とは筆者が教鞭を執り始めた1970年頃からの付き合いで、

最初に教科書として注文したのが、The Rape of the Lockだっ

た。Alexander Popeの完璧な擬似英雄詩 (mock-heroic)である

バイロンがポープを好んだように筆者もポープを好む。

  最後に、バイロンやロマン派詩人の研究を通じて知り合いに

なった学者について、そして筆者の受けた学恩について述べた

い。露の世とはいいながら、いずれも鬼籍に入られ、残念至極

である。先に触れたが、Don Juan I, IIの復刻版を出した

Jonathan Wordsworthはオックスフォード大学の教授、詩人ウ

ィリアムの末弟Christopher(ケンブリッジ大学のTrinity

Collegeの学長)の子孫だった。国際バイロン学会への招待も拒

まず、先祖を攻撃したバイロンのファンたちの集まる前で、臆

することなく、堂々とバイロンとウィリアムのことを語った。

筆者は本務校の龍谷大学で、ジョナサンに先祖のウィリアムに

ついて講演をして頂いた。ジョナサンには暮れなずむグラズミ

ア湖畔で、「バイロンと夕日」のテーマで講演する機会を与えら

れた。

  ケインズ氏の記事にMichael Footのことが出てくる。彼は

政治家で労働党の党首になったが、同時にバイロンについての

著書、The Politics of Paradise1988)もある。彼の講演は数

回聴いた。ハズリットの話がお好きで、また常に愛犬を侍らせ

ていた。一度は立てかけた杖がともすれば滑り落ちて倒れるの

で、それをもとに戻すのが筆者の役目だった。

  先に触れたAnne Barton教授にはケンブリッジやバイロン

学会で何度かお会いした。一度はTheodore Redpath先生(ジ

ョン・ダンの専門家)と後述するPeter Cochranも一緒に、

バートン教授の部屋でシェリーを頂き、その後全員でTrinity

Collegehigh tableに行った。それは龍谷大学で講演にお呼

びしたレッドパース先生のお返しでもあった。因みに先生は娘

さんにOpheliaなる名前をつけた。バートン先生とはある学

会で、バイロンの詩The Vision of Judgmentを簡単にドラマ

化した余興で共演した。悪魔の役をされたバートン先生に、サ

ウジー役の筆者は最後の場面で地獄の方へ連れて行かれた。

   TLSの記事に瑕疵あるとすれば、バイロンのThe Vision of

 Judgmentが、A Vision of Judgmentになっているところであ

る。後者はサウジーのジョージ三世哀悼の詩で、バイロンには

歯の浮くような追従に思えた。そこでジョージ三世の天国にお

ける、真の審判のVision、すなわちThe Visionをバイロンが

示した。AではなくてTheなのである。この定冠詞の違いは

crucialである。

   Last but not least  この記事にはバイロン学者の

Peter CochranByron’s European Impact (2015) のことが

出てくる。ヨーロッパにおけるバイロンの影響の大きさを論じ

た本である。先に述べたThe Vision of Judgmentのドラマの演

出をした男である。博覧強記のバイロン学者のピーター(親友

だからそう呼ぶ)は、ケンブリッジ大学卒業後、Royal

Shakespeare Companyの俳優だった。朗々たる声でシェイク

スピアの台詞を自由自在に引用した。バイロンに関する著書は

多数、ネットではバイロンのすべての詩についての詳しい注釈

を見ることができる。私事で恐縮だが、筆者は2019年の今、『ド

ン・ジュアン』の訳を出すべく、ゲラ刷りの校正をしている最

中である。ポープには、“For fools rush in where angels fear to

tread.”と笑われそうである。21世紀を迎えた頃から大学院の

ゼミで『ドン・ジュアン』を読み始め、2009年に定年で大学を

退く頃には学生諸君と読み終えていた。しかしゼミを進めてい

く過程で頻繁に解釈上の問題に突き当たった。筆者は絶えず

E-mailでピーターに質問した。彼は骨身を惜しまず助けてくれ

る畏友であり親友だった。質問をクリックして家の周りを散歩

して戻ってくると、もう答えが届いていることもよくあった。

全巻に亘って質問し、プリントアウトしたメールは分厚い束に

なり、校正をする今も筆者を助けてくれている。このようにピ

ーターからは最大級の学恩を受けた。ただただ感謝の念がある

ばかりである。国際学会では毎年会った。しかし2015年に71

歳で帰らぬ人となり、Byron scholarshipには大きな痛手とな

った。ケンブリッジ大学のクレア・カレッジで行われた

Memorial service (Celebration)に、筆者は妻とともに出席し

tributeを読んだ。ハムレットが父王について使った言葉、“I

shall not look upon his like again.”tribute を締め括った。

声が震えて泣きそうになった。

  今年は東北大学で日本バイロン協会の談話会があった。仙台

は牛タンで有名な地だが、それよりも筆者にとって感動的だっ

たのは、土井晩翠が最晩年を過ごした草堂を訪ねたことだった。

晩翠は大正13年(1924)に『チャイルド・ハロウドの巡禮』

を出版した。その70年後の1994年に、流麗な七五調の晩翠訳

には比ぶべくもないが、不肖筆者の同作品の訳(修学社)が出

た。『ドン・ジュアン』を訳出中の筆者は大きな感動を覚えた。

『ドン・ジュアン』の訳はゲラ刷りの段階にきている。出版は

2020年になるであろうが、今年『ドン・ジュアン』出版200

年記念の年に晩翠の草堂を訪ね、感動を新たにしたのも何かの

縁である。日本語のよく流れる小川和夫訳(冨山房)の『ドン・

ジュアン』(1993)が出てから30年近くが経つ。小川先生は大

冊の二巻本、『ドン・ジュアン』訳を送って下さった。先人たち

の努力、見事な日本語に少しでも近づくべく、今年2019年は

最後の努力を傾けているところである。来春には『ドン・ジュ

アン』の訳を完成させ、これまで色々な形でお世話になった人

たちの学恩に報いたい。