無名の作家アーノルド・アーノルド

 

 河崎良二

 

 

  25年前、ロンドン大学で在外研究をしていた頃、作家Arnold

Arnoldに会った。帰国したらあなたのことを書きますからと言った

のだが、何も書けなかった。彼の情報が少なく、私の知ってい

ることだけ書いても、私のロンドン滞在記以上にはならなかった

からである。ところが今夏、時間をかけて検索すると、1件"Arnold

Arnold | Open Library”が見つかった。孫といる写真も付いていた。

長い間情報がつかめなかったので、うれしかった。オープン・ラ

イブラリーとは、2008年に創られたインターネットの図書館で、

アーノルドは21冊の本の著者と紹介されている。Ebookになって

貸し出しされている本も2冊ある。驚いたのは、ネットに書いて

いるのが娘マーガレット・アーノルドだったことである。これで

アーノルドのことがかなり分かった。しかし、アーノルドは2012

年に90歳で亡くなっていた。

  19938月から948月まで、私はユニヴァーシティ・カレ

ッジのティモシー・ラングレー先生の指導でピューリタンの自伝

を読んでいた。一人暮らしだったので、寝る前に1時間、その日

の出来事を日記につけていた。以下、アーノルド氏に会った日の

うちの何日かを抜き書きする。

 アーノルド氏に初めて会ったのは1994115日の午後だっ

た。私は地下鉄ノーザンラインのゴールダーズ・グリーン駅近く

に住んでいた。その日は、下宿の近くにあるル・パピヨンという

小さなサンドイッチ屋で昼食を取っていた。すると70歳位の、

頬髯を生やした、いかつい顔の男が入って来て、カウンターの私

の横に座り、主人と話し始めた。そのうち、私の方を見ながら、

「また日本に講演に行くんだ」と言う。私は黙ってサンドイッチ

を食べていたが、仕方なく「作家?」と訊いた。「そうだ。人工知

能について2冊本を書いた。日本へは2度講演に行った」と言う。

今は易に興味を持っている。コンペティティヴとコーペラティヴ

が重要だが、西洋はコンペティティヴのみで駄目だ、といきなり

比較文明論を始める。しばらくして、50代と思われる女性が店に

入ってきて、「もう遅いわよ」と言った。「妻」と紹介してくれた

急いで名刺を交換した。

   3日後にアーノルド氏は電話をしてきて、日立工機のシンタロ

  ウと一緒に食事をしながら話そうと言ってくれた。119日夜、

  シンタロウ氏の行きつけの日本料理屋に行った。ロンドン支店

  のチーフで、私とほぼ同じ40半ば。アーノルド氏との付き合いは

  1年ほどだと言う。日本での講演会の準備や、彼の本の翻訳の世

  話をしていた。その夜はほとんどアーノルド氏の独壇場で、古代

  の中国人が発見した易こそ真理であると言って、図を描きながら

  延々と語った。

   2日後にアーノルド氏に電話し、翌朝家を訪ねた。家はル・パ

  ピヨンの近く。奥さんに案内されて応接間へ。一面が本棚で、後

  は白い壁。二人を描いたスケッチが2枚。なかなか良い絵。ステ

  レオ、小さな机、ソファーが2つ。コーナーに中国の花瓶、水仙

  が活けてある。アーノルド氏は二冊の本を持ってきて、話し始め

  る。時々、意味とは何かといった質問をして私を困らせる。必死

  に質問に答えているうちに1時間半があっと言う間に過ぎていた。

   Winners… and other Losers in War and Peaceという本を貸して

  もらう。疑問、反論を期待していると言われる。

   アーノルド氏の本は確率の議論が基本になっている。例えば4

  枚のトランプを並べてみて、同じ組み合わせで現われる率を観察

  すると、計算上の確率と違うことがわかる。人間の価値観や学習

  能力などの要素がそこに入ってくると言う。自然の現象も同じで、

  全く数学的確率通りには現れず、偏りがある。そういう考えを色々

  な論文を引用し、熱力学まで広げて展開している。

  212日午後、アーノルド氏宅を訪問。ワープロで執筆中だっ

た。いつも書いているらしい。しばらく雑談してから、彼の本の

話へ。「正直な感想を聞きたい」「では言います。内容はともかく、

あなたの本には2つ問題があると思う。1つは、協調が重要であ

り、競争はだめだと説きながら、あなたは相手の理論の批判に終

始している。2つ目は、知識の量ではなく、質が重要だと説きな

がら、あなたは知識の広さを見せ、横にばかり拡がっている」。こ

う言っている間に彼の表情が変わるのが分かった。その後、彼は

長々と反論し、「協調的であるためには西洋では競争的でなければ

ならない」と言った。とにかく書き方が問題、と言って別れた。

氏は、また会おう、と言ってくれた。

   一月ほど経った324日の朝、ル・パピヨンで会った。The

   Corrupted Societyという本を持ってきてくれた。前と同じ印象を

  持つよ、と釘を刺された。

  The Corrupted Societyはアインシュタインの相対性理論から

ホーキンズ博士のビッグバン説までを射程に入れて、近代科学を

否定したもの。理解できたのは、宇宙にもある種の組み合わせの

繰り返しが見られる。決して偶然によって動いているのでも、神

のような絶対者が動かしているのでもなく、ある種の規則性を持

って動いている。それは種々の条件によって決定される。概略を

掴むだけでも大変だったが、前の本よりずっと面白かった。

  415日、朝、本を返しに行く。「今、数学の本を書いている

ところ」と言うので、面白かった、と感想だけ言って帰る。

  423日、ル・パピヨンへ行くと、アーノルド氏が二人の男性

と従軍の体験を話していた。シンタロウ氏が日本の新聞に記事を

載せるらしい。

  69日、朝915分にル・パピヨンで会うことになる。行く

と、先に来て、新聞を読んでいた。初めて握手を求められた。日

本の新聞にまだ彼の記事は出ていないらしい。僕がエッセイを書

くと言ったら、「君は有名人になるよ」と笑った。

   しばらく話していると、アーノルド氏の友人が入ってきた。名

  前はダニエル。またアーノルド氏の質問が始まる。「すごい美人が

  いて、君のところにきて、好きですと言ったらどうする。感情的

  には完全に参っている。答えは一語で」「白昼夢」「違う、知性。

  感情的に参った時は知性で考える」「だけどあなたは何度も奥さん

  を変えているじゃない」と僕が反論。皆で大笑い。今の奥さんは

  四人目らしい。

  これが私の日記の中のアーノルド氏である。残念だが、表面し

か捉えていない。それに陰影を与えてくれたのが、娘マーガレッ

トによるアーノルド氏の略歴であった。

  アーノルド・シュミットは192126日にドイツのケーニ

ッヒシュタインの旧家に生れた。ユダヤ教徒。母方の祖父が事業

家として成功した。33年、家族、親戚と共にナチスが政権を取っ

たドイツを逃れ、イギリスへ渡る。ハンプシャーにある全寮制の

ビーデイルズ校、ロンドンのセント・マーティンズ美術学校、ロ

ンドン大学で学ぶ。30年代にアメリカに渡る。そこでEve Cohen

に出会い、結婚した。41年にアメリカが第二次世界大戦に参戦す

ると、アーノルドも従軍した。しかしフランスで、乗っていたジ

ープが地雷を轢き、重傷を負い、帰還した。この時、名前をアー

ノルド・アーノルドに変えた。48年に一人息子フランクが生れた。

イヴが写真家として腕を磨いている間、ニューヨークのニュー・

スクールで教えた。彼はまた一流の商業デザイナー、子供の遊具

制作者としても活躍した。二人は60年代初めに別れた。イヴと

フランクはイギリスに移った。フランクはアーノルドの母校ビー

デイルズ校に入った。イヴは離婚を拒み、ほぼ40年後にマーガ

レットを含む彼の他の子供たちの遺産相続権を奪おうとした。

  以上が、マーガレットが書いたアーノルドの略歴の前半である。

遺産相続がこじれただけに、偏見があると思われる。そこで先ず

イヴ・アーノルドのことを調べてみた。検索して驚いた。有名な

写真家だった。情報もたくさんあった。1947年にロバート・キャ

パらが創設した写真家集団マグナム・フォトの最初の女性写真家

で、51年に正会員になっている。ネットの情報に、私の感想を交

えてまとめると次のようになる。

  イヴ・コーエンは1912421日、フィラデルフィアのロシ

ア系ユダヤ人移住者の貧しい家庭に9人の子の一人として生れる。

ユダヤ人の伝統の中で育つ。(アーノルドとはニューヨークのユダ

ヤ人社会で知り合ったのだろう。)41年、アーノルドが20歳、イ

ヴが29歳の時に結婚。(その後、アーノルドは従軍し、負傷する。)

46年からコダックに勤め、写真に興味を持ち、48年にマンハッ

タンの学校で写真技術を学ぶ。この年、フランクが生れた。社会

問題に関心が強く、世界中を旅し、南アフリカやアジアの、疎外

された人々の生活を記録した。しかし、イヴが有名なのは二十世

紀後半の著名人の写真家としてである。マリリン・モンロー、マ

レーネ・ディートリヒ、ジャクリーヌ・ケネディ、共和党上院議

員ジョゼフ・マッカーシー、マルコムXなどの写真を撮っている。

イギリスに渡った後の活躍は大英帝国勲章を受章したことから想

像できる。201214日に99歳で死亡。翌5日のガーディア

ン紙に死亡記事が出ている。

  イヴが写真を始め、写真家として有名になっていくのはアーノ

ルドと結婚していた時期である。イヴが離婚を拒否したこと、息

子をアーノルドの母校に入れたことを考えると、少なくとも敬意

を持ち続けていたように思う。では、Gail E. Haleyの場合はどう

だろう。マーガレットは母のことをあまり多く書いていない。

  イヴがイギリスに移った後、1965年にアーノルドはゲイルに出

会い、一緒に暮らし始める。アーノルドは色々と助言をして、ゲ

イルを世界で最も有名な児童文学作家にした。ゲイルとの間に二

人の子供がある。70年代に一家はイギリスに移り、ロンドンに居

を構えた。しかし、80年にゲイルは二人の子供を連れてアメリカ

に戻った。

  ゲイルに関する記述はこれだけである。しかし、幸い、ゲイル

については2つ本の情報がある。1つは石原敏子『絵本を楽しむ

26文字の旅』で、1971年のコルデコット賞受賞作『おはなしお

はなしアフリカの民話より』A Story a Storyが取り上げられて

いる。「ヘイリーは、カリブ海の島で、そこに生息するはずもない

トラやヒョウのおはなしに出会い、その起源をたどるうちにアフ

リカの民話に行きついた、とのことです。アフリカから奴隷とし

て人々が新世界に連れていかれた時、おはなしが伝えられたという

ことです。人を楽しませるおはなしにも、悲しい歴史が潜んで

いるのですね」と書かれている。もう1つはThe Oxford

Encyclopedia of Children’s Literature Vol. 2で、76年にケイト・

グリーナウェイ賞を受賞した絵本「郵便局員ねこ」The Post Office

Catについて、イギリスに住んでいた頃に飼っていた猫から想像

した作品と書かれている。両方の賞を違う作品で受賞したのはヘ

イリーだけである。ネットの情報もKatie Benfieldが書いた

Renowned Author/Illustrator Gail Haley Featured at BRAHM

いくつかの情報がある。

  ゲイル・アインハルトは1939114日にノースカロライナ

州シャーロット市で生れた。父は新聞社の美術担当であった。リ

ッチモンド専門学校、ヴァージニア大学でグラフィックアートと

絵画を学ぶ。59年に数学者のジョゼフ・ヘイリーと結婚。62

に最初の作品を出版。66年に離婚後、アーノルド・アーノルドと

結婚。73年から80年までイギリスで暮らす。

  ベンフィールドの解説によると、ゲイルは人種差別が行われて

いたアメリカ南部で育ち、幼い頃に差別絡みの恐ろしいことを見

て、罪の意識に苦しんだ。その後、アフリカやカリブ海などに旅

し、その伝統や民話に熱中した。旅した国の民話を描いている内

に、罪の意識から解放された。アフリカの民話を描いた「おはな

しおはなし」は1970年の出版である。アーノルドと暮らし始め

て4年目のことである。娘マーガレットが、アーノルドが「色々

と助言をして」と書いた内容は容易に想像できるだろう。アーノ

ルドは二人の女性が世界的な芸術家となる過程で大きな役割を果

たしたのだ。

  しかし、マーガレットが書く晩年のアーノルドの姿は悲惨であ

る。生活が破綻し、一人になったアーノルドは戦争の傷の合併症

に苦しんだ。ロンドンを離れ、母校ビーデイルズ校のあるピータ

ーズフィールドに移り、晩年を過ごした。息子フランクは父を見

捨てただけでなく、マーガレットがアーノルドを探すのを邪魔し

た。しかし、最後にマーガレットはアーノルドの居場所を突き止

めた。

 

   私がアーノルドに会った1994年には、彼は元気だった。破綻

  したとはどういうことだろう。一人になり、というのは四人目の

  妻が彼の元を去ったということだろうか。アーノルドについて多

  くを知ることができたが、闇もまた深まった。