遊びと自由と風狂と

 

  渡辺久義

 

     (こう) はけぶり紅葉は燃ゆる高台寺  

     日は落ちて身はあかあかと山紅葉

     俗塵の(みそぎ)せよとや紅葉寺(もみじでら)

      難渋の若き日よ京の紅葉寺(もみじでら)

 

     以上は、「プレバト」という民放でやっている、タレントに俳句を作

   らせて添削する番組を見ていて、人のすなることをわれもしてみんと

   て、作ったものである。課題は「紅葉と渋滞を入れよ」というもので、

   確かにこれは難題である。2句は条件を満たしていない。自分で気に

   入っているのは「難渋」の句で、読めば、恥ずかしながら少し涙ぐむ。

   ここから私の俳句の試作道中が始まる。昔からやっていたわけではない。

 

 

     以下、芭蕉など先人に学びながら、かつ競り合いを意図するものが

   いくつかある。

     私は芭蕉の、特に「行く春や鳥啼き魚の目は泪」という句を見てい

   ると、どうしてこのような句が生まれたのか、奇跡のように思える。

   これを評したある人が、これを読むと涙が出ると言っていた。どうし

   て人は、悲しいものでなく、美しいものに触れると泣くのだろうか? 

   結びのところがシャガールの絵のようなシュールだが、それ以外にど

   のような秘密があるのだろうか?「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」

   については、Y音が2つと、K音が2つ、連続して現れるのが、この名

   句の秘密のひとつであることはわかるが、これは作者から離れた一つ

   の生き物であって、このまま動かすことはできない。例えば、芭蕉が

  「旅に病ん」だのが春だったとしても、「枯野」を「野山」にすること

   はできない。芭蕉はこの代表的秀句のために、季節を選んで倒れなけ

   ればならなかった。

 

     旅に病んで夢は枯野をかけめぐる(芭蕉)

     旅に病んで遠く人呼ぶ枯木(かれこ)(だち)

     旅に病んで夢にわれ呼ぶ(やぶ)枯らし(からし)

     行く春や鳥啼き魚の目は(なみだ)(芭蕉)

     行く春や親は水辺に子を残し

     行く春や子は去り空は千切れ雲

 

     夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡(芭蕉)

     (むくろ) 食ったる蚊に食われけり(茶々を入れて)

     夏草や斬って捨てたるされこうべ

     夏草やあらお懐かしされこうべ

     夏草や背よりも高き日の母よ

 

     梅が香にのっと日の出る山路かな(芭蕉)

     登りきて(ぬし)なき家に梅はこぼれ

     大根の白き威厳や里の土 

     なるほどと言うほどでない釣指南(これは川柳)

 

     五月雨や大河を前に家二軒(蕪村)

     五月雨やああ天人(てんひと)()き流れゆく

     母刀自(ははとじ)は狂い仏壇に蛇は居て

 

   最後の句、素材は森鴎外短編「蛇」――鴎外のこの短編小説では、母

   刀自(大家のお母さま、小説に使われている言葉ではない)が発狂し、

   仏壇にはいつも蛇がとぐろを巻いている、捨ててもまた戻ってくるの

   で、家人が、そこに泊った理学博士に相談したところ、そんなものを

   怖がることはない、遠くへ捨てればよい、といって捨てさせて一件落

   着した(ようにみえる)話。鴎外は明らかに、近代合理主義によって、

  “迷信” を切り捨てている。私はかつてこれを批判したことがある。

 

    夢に騒ぎ世は森閑と今朝の雪

    初雪や袖のかたちに陽は涙

   木枯らしの切るや老残喉の笛 

    木枯らしや(こと)の葉飛びて形(かた)もなや

    老妻の杖は月夜の金の鞍 

  (この句、「ふたりならんでゆきました」と、「月の砂漠」の句が、自

    然に浮かぶと思ったのですが、そうはいきませんでした、ああ)

    いわれなき随喜とや妻の夕支度 

 

    防備なき濁世(じょくせ)の春のいとおしき

   目を覚ます不貞寝の鳥や春の雪

   水鳥に厳しき寒の刑ゆるむ 

   雪落ちて人腰抜かす春きたる 

 

    張本のケツの憎さよ初ナイター(失礼、時効になった大昔の作品です

    が、あまりにも名句なので?!) 

 

    惑星は目覚め春待つ人や立つ

   首洗う水はよごすな(おお)みずち

    瘴気去り瑞気は天を轟かす

 

 

     最後の3句について(特に「首洗う・・・」について)、私は気に

   入っているのだが、何のことか分からないという方がおられるだろう。

   これは、私の今やっていることが、世の悪と戦う憎まれ運動、アメリ

   カでwhistle-blowerといっている運動で、毎日のように書いている私

   のブログを、読んで下さっている方には、わかるはずのものである。

   宣伝で恐縮だが、これをよく理解していただくには、「創造デザイン

   学会」www.dcsociety.org か、アメーバブログ(アメブロ)で、

  「真実を知りたくないですか?——世界情勢」またはGreatchain(私のコー

   ドネーム)を検索していただきたい。

 

   最後にどうしても言っておきたいことがある。俳句は必ず季節を入れ

   て、自然をうたうことになっている。今、自然の風物の中で、人間や

   水や空気を含め、ケムトレールに汚染していないものはない。私の俳

   句をはじめ、すべての俳句がその底に、この毒物に対する無言の怒り

   と悲しみを湛えているはずである。今、青空というものを我々はもた

   ない。その上に現代俳句は、いわば郷愁(あるいは架構)として成り

   立っている。これは避けられない事実である。