庄野潤三のサローヤン

 

 

 河崎良二

 

 

 庄野潤三の作品を読んでいると、懐かしいような、温かいもの

が体の奥からゆっくり体中に広がり、やがて喜びとなって心が満

たされるのを感じる。それは大きな事件を扱うのではなく、普通

の人間のありふれた日常生活の中に生きる喜びを見つけようと

する庄野の姿勢から生れてくるのだろう。では、庄野はいつ頃、

このような考えを持つようになったのだろう。遡ると、旧制住吉

中学の恩師であり文学上の師である詩人伊東静雄の言葉、「小説

というのは(中略)空想の所産でもなく、また理念をあらわした

ものでもなく、手のひらで自分からふれさすった人生の断片をず

うっと書き綴って行くものなのですね」(『前途』)に行きつくよ

うに思う。これは庄野が九州帝国大学に入学し、一年先輩の島尾

敏雄らとチャールズ・ラム研究会を行っていたときに聞いた言葉

である。その後、庄野は大学二年の 194312月 に大竹海兵団に

入団し、二年後の 1945 年 8月 に海軍少尉として敗戦を迎える。

復員後、10 月に旧制今宮中学に勤務、翌年 1月に結婚、と生活

を安定させながら、伊東の下で島尾や三島由紀夫らと創刊した同

人誌に小説を書き始める。戦争を経験してきた庄野には伊東の言

う、「手のひらで自分からふれさすった人生の断片」を書くとい

うことは、簡単なことではなかっただろう。

  庄野が同人誌に小説を書いていたこの時期に、最も大きな影響

を受けたのはウィリアム・サローヤンではないかと思わせる資料

が、ここ一,二年の内に集ってきた。それは先の伊東の言葉とも

関わっているように思う。そのことを書いてみたい。

  庄野潤三がサローヤンの名前を知ったのは偶然のことだった。

そのことを庄野はいくつかのエッセイに書いている。その一つ、

196911月に『悲劇喜劇』に書いたエッセイ「サローヤンの本」

によると、庄野がサローヤンを知ったのは、海軍から復員して二

年目の 1947  9月、今宮中学に勤めていたときである。勤めの

帰りに街へ出て、「町の人気者」というアメリカ映画を見た。ユ

リシスという名前の少年が庭先にかがみ込んで地面を見ている

出だしから引き込まれた。少し頭のおかしい年上の子どもに連れ

られて図書館に行くところや、杏の実を盗みに行くところがよか

った、と書いている。庄野らしい関心のあり様である。庄野はそ

のとき、原題の『ヒューマン・コメディ』と作者ウィリアム・サ

ローヤンの名前を心に留めた。家に帰って、復員後、童話や劇を

書いていた兄の英二と、関西学院大学で劇研究会に入っていた弟

の至に話した。それからひと月ほど経った 10 月にもう一人の文

学の師である作家藤沢桓夫を訪問したとき、その映画の話をした。

すると、藤沢は「サローヤン?ああ、あれは実にいい作家だよ」

と言って、書斎から一冊の本を持って来て、読んでごらんと貸し

てくれた。家に帰ってすぐにその短篇集『わが名はアラム』の最

初に置かれた「美しい白馬の夏」を読んで、魅了された。その感

動を庄野は二年後の 1949  9月、ガリ版刷りで発行された同人

誌『VIKING10号の「サロイアンのこと」に、「書き出しをよん

だ時に、私は恐らくF氏以上に自分もこのアルメニア系の作家が

好きになるかも知れないといふ予感に心が震へた」と書いた。

  それから二年ほど、庄野はサローヤンにのめり込んだ。兄も弟

も、その友人知人もサローヤンが好きになった。サローヤンを初

めて読んでから約半年後の 1948  5月頃、庄野は「理髪師アラ

ム」を劇にした。しかし満足できる出来ではなかった。それで 6

月に、『わが名はアラム』の二つ目にある短篇「ハンフォードへ

の旅」を「巴旦杏の木の下」という劇にした。

  その劇はその年の9月に、「劇団ともだち劇場」の第3回公演

演じられた。この公演の演出助手をした戎一郎が書いた本『子

どもの夢・子どもの劇:劇団ともだち劇場の記録』には、「劇団

ともだち劇場」は、戦前帝塚山学院小学部に勤めながらラジオの

子ども向け番組に出演していた泉田行夫が、復員後の 1946  7

月、同じく復員してきた庄野英二、藤沢桓夫の甥で後に川端康成

に師事する石浜恒夫ら10名の同人と作った児童劇団で、1983 

まで 37 年間続いた、とあった。劇団の命名者は藤沢桓夫である。

翌年、終戦一周年記念として行われた旗揚げ公演は庄野英二作

「ある晴れた日に」で、「無一文になって外地から引き揚げてき

た家族が故郷の平和な晴れた青空を見て、再建をちかう」話であ

った。

  庄野潤三は弟の至がときどき家に仲間を連れて来て、稽古をし

ていたので、劇団創設当初からときどき顔を出して、アドバイス

をしていた。庄野潤三が 1948  6 月に書き上げた劇「巴旦杏の

木の下」はその夏中稽古して、月に上演された。戎一郎による

と、登場人物はアラム、バスク、ムーラット、おじいさん、おば

あさん、おじさん、ゾラブ他となっている。弟の至はその他の隣

人で出演した。「おじさん」とはジョーギ叔父のことである。ゾ

ラブも叔父である。ムーラットというのは原作には出てこないが、

先に紹介した短篇「美しい白馬の夏」の主人公で、ゾラブ叔父の

息子で、アラムの従兄である。彼らは祖父を中心に、一族で貧し

い暮らしに耐えていたのである。原作「ハンフォードへの旅」は

こんな話である。

   ある年、家の者からバカと言われていたジョーギ叔父さんが、

  27 マイル離れたハンフォードに行ってスイカ畑で働くことにな

  った。家の者は、叔父さんが仕事もせずに、一日中チターを弾い

  ているのが気に入らなかったのだ。一週間もすると、歌が聞こえ

  なくて寂しくなりますよ、とお祖母さんは言ったが、あいつもチ

  ターもくそ食らえだ、とお祖父さんは言った。最初、お祖父さん

  はヴァスクを一緒に行かせて、ご飯の用意をさせようと考えてい

  た。しかしヴァスクがろくにご飯も炊けないと知って、迷った結

  果、皆に聞いた。ゾラブ叔父が、バカを二人行かせるのはどんな

  ものかと言い、その罰を受けるのはアラムだと言ったので、ぼく

  に決まった。ぼくは口真似をしたりして、叔父をからかっていた

  のだ。

   翌朝早く、ぼくたちはジョーギ叔父さんの自転車で出発した。

  ハンフォードに着いたのは午後遅くだった。町を歩き廻って、ス

  トーヴとガスと水道のある家を見つけて入った。入るとすぐに、

  叔父さんはロウソクを灯し、チターを取り出し、床に座って歌い

  始めた。時には悲しく、時には滑稽な歌だったが、どれも美しい

  歌だった。叔父さんはお腹が空いているのも忘れて歌った。

   翌朝、叔父さんはいやいや仕事に出て行った。しかし一時間ほ

  どして、大喜びで帰ってきた。「仕事はもうないぞ」、「スイカの

 シーズンは終ったんだ」と叔父さんは言った。ぼくは「始まった

  ばかりだよ」、「叔父さんは仕事に身が入らないから、お百姓さん

 は仕事がないと言ったんだよ」と答えたが、叔父さんは「家賃は

  払ってあるから、一か月ここにいて、帰ろう」と言った。そして

  小躍りして家に入ると、チターを取り出して歌った。

   ぼくたちはひと月その家にいて、帰った。最初にぼくたちを見

  つけたのはお祖母さんで、「お金は」と聞いた。ぼくは叔父さん

  が働かなかったことを話した。「お祖父さんには内緒だよ」と言

  って、お祖母さんはお金をくれた。お祖父さんは帰ってくると、

  「もう帰ったのか。お金は」と怒鳴るように言った。ぼくがお金

  を渡すと、「あいつが一日中歌うことなど絶対に許さないぞ」と

  大声で言った。叔父さんは庭の巴旦杏の木の下でチターを弾き始

  めた。お祖父さんは立ち止まって聞いていたが、しばらくすると

  客間の長椅子に横になって、微笑みを浮かべて眠っていた。叔父

  さんは美しく、悲しい声を張り上げてハレルヤを歌った。

  実に美しく、悲しく、しかも面白い話である。貧しさの中の幸

せ、息子に理解のある祖母、貧しいので、何とか息子に働いても

らいたいと厳しい言葉を浴びせるが、本当はバカな息子が可愛く

てならない祖父、そしてバカな息子が歌う美しい歌。もちろん庄

野潤三は、サローヤンがトルコによる大虐殺を逃れてアメリカに

来た難民の子どもであることを知っていた。しかしそういう大き

な問題を描かずに、貧しい家族の生活の中に哀しさとおかしさが

同居している様子を描いた サローヤン の短篇に引かれたのだろ

う。一日中チターを弾いている家族一番のバカ息子が神を称賛す

る歌を歌うというところに、何か人生の深い意味を感じたのでは

ないだろうか。きっと、チターは彼らの故郷でよく使われている

楽器で、バカ息子が歌うのは彼らが失ってしまった故郷の歌だろ

う。こうしてゆっくりサローヤンの短篇を読んでみると、庄野が

サローヤンに関心を持った理由が分るように思う。

  弟の作家庄野至は小説「三角屋根の古い家」で、「ユーモアが

あって洒落た脚本が出来上がった」と述べ、さらに、「児童劇と

しては、喜劇でも冒険ものでもない静かな劇だった。だが泉田行

夫さんの爺さん役が面白くて、サローヤンらしい魅力的な雰囲気

があった、と新聞にまで劇評が載って、兄や僕らが感激したのを

覚えている」と書いている。

   当の庄野潤三は劇団「25周年記念パンフレット」に「はじめ

  て書いた劇」という短い文を書いている。

 

  私は入口で切符をちぎる役を手伝っていましたが、小学生が

  まだ焼けあとの残っている道を、会場へ詰めかけて来る姿を

  見て、感激せずにはおられませんでした。/略/生まれては

  じめて書いた劇で、もしも客席にいっぱいの小学生ががっか

  りするようなことになったら、どうしようと心配でした。し

  かし、みんなが力を合わせて精いっぱいよくしてくれたので、

  私にとって一生に一度のうれしい思い出となりました。

 

   この公演には詩人の伊東静雄と、大学以来の文学仲間である島

  尾敏雄が来ていた。戦時下に島尾を、彼が尊敬する伊東に紹介し

  たのは庄野だった。庄野は二人が来たことをエッセイ「サロイア

  ンのこと」に書いている。

 

 伊東静雄さんや島尾君が観客席の一隅にゐて、劇の途中で

(なかなかいヽですね)と云ふ言葉を囁いてくれたので、作

者はまんざらでもないと云ふ顔をした。とも角、この劇の公

演のために僕は昨年の夏いつぱいをかけたのだつた。そして、

自分がサロイヤンになつたつもりで、一度だつて脚色者だと

思つたことがない。従つて「巴旦杏の木の下」に寄せられた

讃辞は、当然自分に寄せられたものと思ひ込んで胸をワクワ

クさせてゐた。

 

   庄野がいかにこの劇に熱中していたか、たくさんの子どもが見

  に来てくれたこと、伊東と島尾に褒められたことがどんなに嬉し

  かったかがよく分かる。

   エッセイ「サロイアンのこと」は同人誌『VIKING』に書いたも

  のである。島尾は伊東のところに来ていた富士正晴に誘われて、

  『VIKING』の創刊号から同人として加わった。1947  10 月の創

  刊号から 1949  6 月の第 7 号まで富士正晴と井口浩が編集を行

  っていたが、1949 7 月 発行の第 8 号から同年 9 月発行の第 10

  号まで島尾が編集に当った。その第 10 号に庄野は「サロイア

  のこと」を発表し、翌 10 月発行の第 11 号に「エッセ・サロイア

  ンのこと2」を発表した。そのエッセイで庄野は、サローヤンの

  文学をどう理解したかをはっきり述べている。次の文は『わが名

  はアラム』の短篇「哀れ燃える熱情秘めしアラビア人」について

  述べたところである。

 

  ここには、少年のウヰリアム・サロイアンの瞳に映つた、

故郷を失くしたアルメニア移住者の悲しみが切なくぶちま

けられてゐる。サロイアンの文章を読む時に、僕はいつでも

この深い悲しみ――少年の瞳に映つて光つてゐる屈折した

悲しみが、彼の精神の中に層を成してゐるのを発見する。

   一見、極めて単純素朴な風に受け取られる彼の文学が

  ははかり知れない智慧の深さと、未来への奔放な意志を含ん

  でゐるのである。

 

   先に見た「ハンフォードへの旅」も同じだが、一日中故郷の歌

  をチターを弾いて歌っているジョーギ叔父の心にも、ゾラブ叔父

  の心にも、故郷を失くした悲しみが巣くっている。お祖父さんも

  お祖母さんも同じである。彼らには息子の悲しさが分っている。

  それでもお祖父さんは、現実を生き抜くには働かねばならないと

  息子を叱るのだ。しかし、息子が弾く歌を聞くと、気持ちが安ら

  ぎ、知らず知らずの内に微笑みが浮かぶ。そのことが分らないの

  は子どものアラムである。だからアラムはゾラブ叔父をからかう。

  しかしジョーギ叔父が歌う歌はアラムの心をとらえ、美しいと思

  う。それはアラムの中に流れているアルメニア人の血である。小

  説を書いていた庄野には、一見単純に見えるサローヤンの作品が

  「はかり知れない智慧の深さと、未来への奔放の意志」を持って

  いることがはっきり分かっていた。

  島尾は 1947  10 月発行の『VIKING』創刊号に小説「単独旅行

者」を書き、野間宏に認められ、1948年に文壇に登場する。1951

年までに島尾は次々に作品を発表するが、その頃の小説について

島尾は、「私のできることは過程のささやかな記録、そしてそれ

をできるだけ忠実に記述することのように思えた」(比嘉加津夫

著『島尾敏雄』)と書いている。19489月、島尾が庄野の劇を

見に来たのはそんな時期だった。そのとき、島尾は庄野に戦時中

の体験を書くように勧めたかもしれない。というのは、その後、

庄野は新しい小説を書き始め、1949  1  21 日に脱稿している

からだ。それは結局死ぬまで発表されなかった。その小説逸見へみ

小学校』が文芸誌『新潮』に掲載されたのは、庄野の死後二年目

2011年だった。

 『逸見小学校』は1945  3 月、海軍少尉として庄野隊を編成

し、アメリカ軍の上陸に備えて横須賀の逸見国民学校に集結した

頃の海軍軍人の生活を描いた小説である。と言っても、主人公が

妹に結婚相手を探してくれるように頼み、その女性に会いに行く

話や、駐屯中の諍いや酒宴など部隊の日常生活を描いたもので、

いわゆる「戦争文学」と呼ばれる作品ではない。『逸見小学校』

に「解題」を書いた鷺只雄が紹介しているように、庄野は 1964

825日の読売新聞のエッセイ「私の戦争文学」で、「私は戦

場を知らない」と述べ、「戦争というのはひと口に悲惨といって

しまうのでは足りなくて、(中略)いろんなおかしみや哀感のあ

ることを生み出すのに都合のいい状況をつくる」と述べている。

それは日々の生活を描くという庄野の主張と軌を一にしたもの

で、伊東静雄の言葉を思い出させる。しかし、軍隊生活での「お

かしみや哀感」という言葉は、虐殺というアルメニア移住者の過

去を描くのではなく、貧しい日々の生活の中に哀しさとおかしさ

を見出して描いたサローヤンの作品を思わせる。

  さらにもう一つ、『VIKING』に「サローヤンのこと」を書く二

カ月前に書かれた興味深いエッセイがある。昨年出版された『庄

野潤三の本 山の上の家』に収録されている五つの随筆の最初に

置かれた「わが文学の課題」である。それは1949725日の

「夕刊新大阪」に掲載されたエッセイである。

 巴里祭(714日)から10日目、強烈な太陽が降り注ぐ時が、

一年中で一番好きな季節だ。果物屋の店先に巴旦杏が並んでいる

と撫ぜてみたくなる。「そして、サロウヤンの『杏が盗みたくな

るほど熟したころ』という言葉をたのしく思い浮かべるのであ

る」と続く。若い命が躍動する歯切れのいい文章である。しかし

そのエッセイは、「これから先、幾回夏を迎えるよろこびを味う

ことが出来るのだろう?」、巴里祭の時期が好きだという僕のこ

とを知っている人たちが死んでしまった時には、そのことを知っ

ている人は誰もいなくなる。「それを思うと、僕は少し切なくな

る」。そして「そのような切なさを、僕は自分の文学によって表

現したいと考える」と続く。庄野の作品の好きな人なら誰でも知

っているように、それは代表作と言われる『夕べの雲』に流れて

いる庄野の人生観である。

 庄野は故郷を失った一族の人々の日々の生活を描いたサロー

ヤンの小説を読んで、無知な子どものいたずらや笑いの表面の底

に、悲しみが層を成しているのを知った。海軍特攻隊を志願した

庄野にとって、戦争体験は重いものであった。しかし庄野はそれ

を描くことを自分の文学の課題としなかった。庄野は日々の生活

を描くことを自分の課題とした。サローヤンの『わが名はアラム』

を読んだときのことを書いたエッセイ「サローヤンの本」には次

のように書かれている。

  「サローヤンを知ったことは、どういう風に書いていいのか分

らなくて困っていた私を元気づけてくれた」。

  19494月、庄野は島尾の推薦で、戦後の新しい文学団体で

ある新日本文学会の雑誌『新文学』に「愛撫」を発表した。それ

が好評で、庄野は翌年の19502月に文芸誌『群像』に「舞踏」

を書き、文壇に登場する。庄野が194710月にサローヤンの短

篇集を読み、1948年にサローヤンの短篇を劇にし、19499

10月にエッセイ「サロイアンのこと」を書く間に、庄野は人

生の断片を見つめて書く作家として文壇に登場するのである。