笹山隆先生の「閑雲野鶴」

 

 河崎良二

 

 

 昨年11月にお亡くなりになった笹山隆先生のお宅は阪急仁川駅から

仁川沿いを甲山に向って5分ほど歩いたところにある。対岸には恩師

竹友藻風、後には藻風の四男で大阪大学の教授だった藤井治彦氏が住

んでおられた。先生は阪神淡路大震災の翌年に長年住み慣れた仁川の

高台から川のほとりに下りてこられた。以後、先生は仁川沿いの散歩

や、二階にある書斎の大きな窓から仁川を眺めることを楽しんでおら

れた。退職後、古稀を迎えられた年に『英語青年』に連載された随想

集『甲山日記抄』の最初の一篇「閑雲野鶴の願い」には四季折々に見

せる甲山やゴイサギの姿が描かれている。ただ先生の願いは、南画に

描かれた文人墨客の生き方とは違ってシェイクスピア学者らしい西洋

的な、主体的な生き方である。先生の言葉を借りれば、若い頃からの

愛読書アン・モロウ・リンドバーグの『海からの贈物』に描かれた「内

的自己を断片化すべく働く習慣化された生活と思考の型を離脱し、求

心的な生を営むことを通して、何物にも捉われない真の自由を獲得す

るという思い」であった。退職後に振り返って見て、「絶えずアカデミ

ズムの声に耳を傾け」てきたわけではないのに、「習慣化された考え方、

論理の立て方のおり滓が、思いのほか厚く沈澱して」いると思われた

のだ。「これからは他人を意識せず、自分のためだけに感じ、考える方

向に進もう」というのが先生の願いであった。

笹山先生には1973年から77年までの4年間、大阪市立大学大学院

で教えていただいた。先生の授業は劇一篇を読み通し、自分の解釈を

持って臨まなければならなかったので、訳読に慣れていた私には厳し

いものだった。毎回、1,2名の担当者が粗筋を述べ、解釈を発表し、

先生を交えて全員で議論をしていくのだが、解釈の基となる言葉の意

味は必ずOEDで調べておかねばならなかった。7,8人のクラスだっ

たので、先生にとっては文学サロンに近かったのだが、学生たちは私

に限らず常に緊張していた。のんびりと大学時代を過ごしてきた私は

批評理論に弱かったので、博士課程に入ってからは授業外で、他の院

2人と批評書を与えられて読んだ。お茶を飲みながら、時にはお菓

子を頂きながらの、先生にとっては和やかな時間だったのだが、私に

とっては不勉強と力のなさを痛感した時間であった。それでも、後に

ロンドン大学で研究する機会を与えられた時、幸運にも十八世紀英文

学の専門家から個人授業をしていただき、課題として与えられる本を

読み、議論できたのは先生の授業のお蔭だと、改めてありがたく思っ

た。

  私が初めて先生に接したのは1973年だが、その時には先生は既に何

 冊もの本を出しておられた。最初の書物は1958年28歳の時に出さ

 れたC.モーガン著『鏡に映る影』の翻訳で、矢本貞幹氏との共訳と

 なっているが、ほとんどが笹山先生の仕事であったと矢本氏が「あと

 がき」に書いておられる。続いて61年にThomas Middleton、William 

 Rowley作『チェインジリング』の編注書と翻訳、68年にアリストテレ

 ス著『詩学』の訳注、69年にHenri Fluchère著『シェイクスピア:

 リザベス朝の劇作家』の翻訳(ポール・クローデル翻訳賞)、71年に

 Kenneth Muir著『四大悲劇』の翻訳、74年にシンポジウム英米文学

 『シェイクスピア』がある。後に出される主著『ドラマと観客 : 観客

 反応の構造と戯曲の意味』(河竹賞)や『ドラマの受容 : シェイクスピ

 ア劇の心象風景』の基本的な考えはこの時に既に固まっていたように

 思える。『ドラマと観客』には、学部の卒業論文を書いていた頃に既に

 関心が「エリザベス朝観客の意識形態とその反応の仕方に向いていた」

 と書かれている。

  長い時間をかけて考察された論文を収録した『ドラマと観客』『ド

 ラマの受容』は門外漢の私にさえ、わくわくするほど知的な仕事であ

 った。先生の論は、『ドラマと観客』の副題「観客反応の構造と戯曲の

 意味」が示しているように、劇場において主体的に反応しながら劇の

 意味を作り上げていく観客の反応と、観客の意識の中で劇の意味が形

 成されていく過程を客観的に捉えようとするものだった。それは無意

 識の反応を含むがゆえに意識的に捉えることの難しい仕事であった。

 シェイクスピアの戯曲の場合、ハムレット』のように、ほとんどの戯

 曲が古い劇や伝説、民話、歴史書を基にしている。フロイトやユング、

 ゲシュタルト心理学の枠組みを取り込んで構築された先生の論では、

 それら先行の伝説や民話は戯曲のテクストを超えた「非合理的なエネ

 ルギー」として観客に作用するとされている。先生の論を読んでいて

 わくわくするのは、読者を人間についての深い理解へ導くからである

 のは言うまでもないが、一つ一つのせりふから無意識の反応まで、「非

  合理的なエネルギー」をも含めて全てを直感的に捉えることのできる

 純粋観客を措定し、その観客が戯曲に意味を付与していく過程を極め

 て知的に、粘り強く、しかも明晰に分析していかれるそのエネルギー

 に読者が反応するからだと思う。

 門外漢が先生の論について拙い感想を述べるのはここまでにしたい。

代りに、退職後に書かれた最初の随想集『霧のなかの風景』の「非凡

なる平凡―シェイクスピアのもう一つのスタイル」を取り上げたい。

「短くて何の変哲もないのだけれど、劇場でそれを耳にするたび感動

に襲われるせりふがある」といっておられるところである。『オセロー

第四幕第三場、先に寝ているようにと言ってオセローが出て行った後、

柳の歌を歌っていたデズデモーナが突然歌を中断して侍女エミリアに

言う。

  デズデモーナ  お聞き! 戸をたたくのは誰?

  エミリア    風ですわ。

 

    だしぬけにデズデモーナの口をついて出るこの鋭い誰何の叫び                         は、来たるべき運命を漠然と予感しつつ、けなげにもすべてを耐え

 抜こうと必死の努力を続ける彼女の精神におけるただ一つの綻び

 であり、そこからわれわれは、夫の帰宅を待つ彼女の期待と脅え、

 愛の希望と死の恐怖の交錯するさまを、垣間見るのである。だがそ

 れだけではない。舞台形象としてのこの場の情景は、風の吹きすさ

 ぶ寒い冬の夜、突然の聞き慣れぬ物音に戦き続けた自らの幼き日の

 記憶を観客の意識に呼び覚ますことによって、一種の象徴的な心象

 風景と化し、最終段階の悲劇経験に向けて彼らの心を準備するので

 ある。

 

   先生の論がいかに深く人間を捉えたものであるか、その魅力の一端

  を理解していただけたと思う。ただ、このように観客の無意識まで含

  めて考えると、時代も風土も異なった劇作家の民族的感性を異国の観

 客がどれだけ正確に把握で きるのかという問題が生じてくる。『ハムレ

 ット読本』の先生の言葉を引用すると、どのような受容者にもそれぞ

 れに異なる相貌を見せる『ハムレット』の実体を捉えようとすると、「奇

 妙にも、われわれはわれわれ自身に向かって『まず己れ自身を明らか

 にせよ』と告げる声を耳にする感に襲われるのである」。ところがその

 答は残念ながら先生のどの論文にも書かれていない。学者の仕事は、

 例え自己の問題意識を深めることを意図していても、研究の対象は自

 分の外にある。それゆえ、ほとんどの学者はリンドバーグが書いてい

 るように、「内的自己を断片化すべく働く習慣化された生活と思考の

 型」を持つことになる。その傾向は研究が進めば進むほど著しくなる。

 しかし幸い、笹山先生には「己れ自身を明らかに」された二つの随想

 集がある。不世出の学者を支えてきたものが何であったのかを見てみ

 たい。

 

 随想集を読むと、幼い頃に住んでおられたのは現在の川西市、当時

の川辺郡川西町であったようだ。『甲山日記抄』の「産土神に背いて」

には、「当時私は川向こうのK町に住んでいたが、すべての生活の基盤

I市にあった。中学生になった頃から、私は学校から帰ると、自転車

に乗って橋を渡り、I市の賑やかな通りを当てもなくうろつくことが多

くなった。堤防下の小さな芝居小屋」とあって、「呉服座、現在愛知県

の明治村に移され、重要文化財に指定されている」と注が付いている。

その名前から推測すると芝居小屋があったのは池田市呉服町だろう。

近くには今も橋が架かっている。その芝居小屋が後のシェイクスピア

学者を育てたと言えば簡単だが、残念ながらそうではない。ただで入

れてやろうと誘われたが、桟敷には蚤がサーカスをしていると祖母か

ら聞かされていたので、入れなかったのだ。

 先生が(実際は白檀らしいが)「栴檀は双葉より芳し」かったことは、

芝居小屋近くの橋のたもとにあった古本屋をめぐる文に、「『撃ちてし

やまん』をテーマとする中学生綴り方全国大会で、文部大臣奨励賞に

輝いた」と書かれていることから分る。その文には「ひとりの皇国少

年」であったと複雑な思いが滲んでいるが、文才は早くから際立って

いたのだ。先生の中学時代は太平洋戦争の末期で、笹山少年は「B29

の不気味な爆音下、地響きの伝わる防空壕に息をひそめて」いた。「毎

日が前日の繰り返しでしかない田舎町の日常と、十軒を越える親戚間

の義理人情にからむ果てしない確執への倦怠」に異国への憧れを募ら

せていた。ある日、橋のたもとの古本屋へ大佛次郎の『大菩薩峠』の

端本を探しにいった。「私の目が、ふと青白赤の三色刷りのバターくさ

い二冊の本の上に落ちた時、大袈裟に言えば、私の運命は決まったの

であった」。昭和十二年と十七年に出された瀧澤敬一著『フランス通信』

とその続編に描かれた「生命感あふれる敵国フランスの都の情景」は

笹山少年にとって目まいを起させるほどの衝撃であった。

 それからの外国語の勉強は猛烈なものだった。そのことは「憧憬と

呪縛―竹友藻風」に書かれている。当時英語は敵国語であったが、級友

たちが軽蔑の目で見るのも気にせず、笹山少年は代数の勉強さえ英

文の参考書を使って行うほど熱中した。終戦になると、個人教授をし

てもらう先生宅に出かけ、ディケンズやスコットをテキストに毎回終

電車の時刻まで3、4時間勉強した。それに加えてドイツ語の勉強を始

め、先ず一年近く旧制高校の教授のところで基礎を学び、それ以後は

芥川龍之介の短篇などを訳して『新皇正統記』の訳者である知り合い

のドイツ人に見てもらった。旧制高校にあがると一年生の冬に、当時

関西学院大学教授であった竹友藻風を訪ねて、個人教授を依頼した。

「火鉢のかたわらに端然として坐り、鋭くこちらを見つめられる先生

には、何ともいえぬ風格があった。それはひとりの文学青年をとりこ

にするに充分であった」。「それからの数年間、私は第二の藻風になる

ことを夢見た。毎週のように先生のお宅をお訪ねしては、一緒にペイ

ターやメレディスを読んでいただき、いろんな話をうかがう時、私は

無上の幸福感にひたった」。藻風はその後エリザベス朝劇の選集を渡し、

必ず一篇ずつ読み上げてくるようにと言った。笹山先生のシェイクス

ピア学者としての出発はこの時に始まったのである。大学は東大か阪

大か、英文か独文かと迷われた時も、藻風につくのが最善であると決

めて藻風がいる大阪大学を選ばれたのである。

 藻風は1891年大阪生まれで、1913年、22歳の時に処女詩集『祈禱』

を、二年後には『鬱金草』、『浮彫』を出した著名な詩人である。京都

帝国大学、イエール大学、コロンビア大学に学び、コロンビア大学

MAを取得。1920年に帰国した後、慶応義塾大学、東京高等師範学校、

1934年から関西学院大学、1948年から大阪大学文学部で教授を務め、

1954年に亡くなった。藻風のことを調べていて興味深い本を見つけた。

1934年出版の『冬扇帖』である。笹山先生の二つの随想集の発行所は

冬扇社である。以前どんな出版社ですかとお聞きした時、夏炉冬扇だ

よ、と笑っておられたが、それは藻風を意識したものだったのだ。

  藻風の後は、阪大卒業後にフルブライト留学生として行かれたハー

 ヴァード大学での指導教授ハリー・レヴィンを始めとする教授たちの

 影響が大きかった。「ハーヴァード 一九五三―五四―郷愁の記―」に、

 「戦争の残したトラウマによって、ともすればニヒリズムに傾こうと

 するひとりの多感な青年にとって、当時のアカデミズムの根本原理で

 あったヒューマニズムが、ある意味で精神治療的な効果を発揮したこ

 とは、否定できない」と書かれている。私は住まいが近くであったの

 で何度も先生にお会いすることができたのだが、関西学院会館のレス

 トランで午後のお茶をいただきながら話を伺っていた時、読み終えた

 ばかりの阪田寛夫の『海道東征』に出てくる信時潔の「海ゆかば」の

 話をすると、即座に、あんな曲は二度と聞きたくないと強い調子で否

 定されたのが忘れられない。皇国少年であったという悔いや勤労動員、

 大阪大空襲などの戦争経験が抜きがたく残っていたのだ。別の一篇「こ

 とば、言葉、コトバ」には、「記憶の沈澱槽を心眼で透かして見ると、

 一番下に汚泥のように、小学校の国語読本や修身の教科書からの断片

 と、さまざまな軍歌が沈んでいて、その上に教育勅語、軍人勅諭前文、

 そして宣戦の大詔の堆積層がある」と書かれている。戦争体験を乗り

 越えさせ、その後国際的な学者として活躍された先生を支えていたの

 は、先に挙げたハーヴァードでのヒューマニズムであったと思う。

 しかしグローバリズムの拡大、ITAIの発達に伴って知の在り方が

大きく変化した。「二つの世紀末のはざまで」で先生はその変化を悲し

さを滲ませて語っておられる。「文学研究の面で見る限り、二十世紀後

半ほど複雑に揺れ動いた難しい時代はないのではないか。世紀半ば、

学生としてハーヴァードでたたき込まれたヒューマニズム正典主義

(中略)は、今や真っ向から否定さるべき原理でしかない」。それは「現

代の無機質的な批評の風土の中では、肯定的認知を受けられそうにな

い」。これらの言葉から逆に、先生にとってヒューマニズムがいかに重

要であったかがわかる。では、一般に人間性の尊重、あるいは人間の

解放と考えられているヒューマニズムを先生はどのように理解してお

られたのだろう。そのことを知るのに相応しいのは先生にとっての処

女作と言っていいモーガン著『鏡に映る影』の長い解説だろう。先生

の論文だけを読んできた人は冒頭から続く熱い言葉に驚くだろう。

 

  我々は今日、一つの転換点に立っている。地球上を血に染めた人

 類最大の悲劇は、漸く過去の歴史的事実となろうとしているのに、

 廃墟から立ちあらわれるべき世界の姿は、誰の目にも依然としてヴ

 ェールをかぶったままである。そこに現代の不安と焦燥、懐疑と絶

 望の原因がある。人々は、自己の醜い傷痕に触れられるのを嫌悪す

 るように、ともすれば過去から眼をそむけ、未来を指さして、そこ

 に栄光を見出そうとする。だが、それが過去から現在を経てのびる

 未来であり、我々の祖先が、そして我々が、苦闘してもとめてきた

 価値にもとづく世界でない限り、それは所詮幻想であり、夢物語に

 過ぎないだろう。

 

 イギリス人が、ドイツを打破った後にも戦わねばならない敵は、彼

 等の内部にいるのだと彼(モーガン)は喝破する。それは、戦争の

 必要という名に隠れて、頭を抬げようとしている全体主義、劃一主

 義にほかならない。それは個人の自由を奪い、その信奉者自身の必

 要のみを満たすところの相対的価値階梯を人々に押しつけようと

 する。

 

 

  ナチスドイツの攻撃に曝されていた1943年から44年にかけてモーガ

 ンは毎週『タイムズ文芸附録』に寄稿し、真の戦いはドイツとの戦い

 ではなく、それに勝利した後にやってくる個人の自由を奪う全体主義

 との戦いであると説いた。こんなことが太平洋戦争中の日本で許され

 ただろうか。EUからの脱退を決め、混迷する現在のイギリスにもしモ

 ーガンが生きていたら、自国の利益ではなく、もっと「永続的、絶対

 的な価値を常に見つめることを人々に要求」しただろう。「人間の尊

 厳は個人の精神の完全性にあるのであって、それを奪おうとするもの

 からは、たとえソクラテスのように死をもってしても、それをまもら

 ねばならない」。先生が共感されたヒューマニズムとはこのような強

 靭な意志に支えられたものだった。それはAIが圧倒的な力を発揮する

 ことになる未来においても変わらないはずである。退職後にロマネス

 ク寺院を訪ねたり、演劇やオペラを楽しんだりと自由な生活を謳歌し

 ておられたが、先生の「閑雲野鶴の願い」にはリンドバーグの言う、

 「求心的な生を営むことを通して、何物にも捉われない真の自由を獲

 得するという思い」が貫かれているのだ。エリザベス朝演劇に関する

 先生の論文に流れているのも、このような強靭な意志と、何よりも自

 由を求める熱い思いなのである。