喜びの讃歌――43年目の追悼          

 

櫻井正一郎

 

 

 中西(のぶ)太郎先生が逝かれてから43年目になろうとしている。後学のため

に追悼文を書きなしておきたい。先生の著作と翻訳がどのように後学のた

めになるのか。個人的な思い出を挿んでゆこう。

先生の著作のなかから代表作を三つあげるとすれば、『ハムレット』

(1939)、『シェイクスピア序論』(1939)、『シェイクスピア批評史研究』

(1949)であろう。

『ハムレット』についてこう説明されている――「私は本書において、『ハ

ムレット』に関する最も重要な、ないしは一般的な事実を、適当とおもふ

程度に取りだしてきて、それを、『ハムレット』を如何に読むべきか、とい

ふ課題に答へる目標のもとに、整理整頓してみた」。これを敷衍してみると

――最も重要な、先生のことばでは「根源的」な論題だけをとりあげた。

特別の論題ではなく、誰もが関心をいだく論題だけをとりあげた。論題は

あえて少なくした。作品を如何に読むべきかという、根本的な観点をここ

ろがけた、と。「一般的な」については、専門家にとって一般的な、が一義

であるが、併せて、普通の読者にとっても一般的な、が含まれていた。そ

れを含ませるのが先生の持論だった。以上のような方針と観点から、本書

では『原ハムレット』や「復讐悲劇の系譜」のような「根源的な」論題が

選ばれた。同書はかつて広く読まれた弘文堂「教養文庫」の一冊だった。

どの冊にも教養主義が色濃かった。教養主義は大正・昭和の知識人を育て

た。先に見たような本書のリベラルな、本質を問うて自由な性格は、教養

主義の性格でもあった。この性格は先生の著作に共通していた。同書の増

訂版として『ハムレット—序説』(1950) があった。

 博士論文になった『シェイクスピア批評史研究』に業績の頂点があった。

この見方に異論はないであろう。シェイクスピアへの批評の歴史が、英文

学史ないしはイギリス精神史の、要約であったとした。著者がめざしたと

おりに、本書によってシェイクスピア批評史が納得され、併せて英文学史

が納得される。新奇な説を立てずに歴史にただ従った。資料の適切、論の

緻密、文章の気品は、京大英文科卒業生がその後に提出する博士論文の規

範になるべきものだった。

 この『批評史研究』の前身が、それより10年前に刊行された『シェイク

スピア序論』だった。八篇の別個の論からなっているが、全体として、20

世紀のシェイクスピア批評を概観していた。ブラッドレーらによるロマン

チックな批評のあとに、シュッキング、ストールなどの「リアリスト」批

評が現われた。その「リアリスト」批評に共鳴しながらも、より高い批評

として、T. S. エリオットの批評を尊重した。エリオットの批評は、シェイ

クスピアを世界文学の一つとして、文明史のなかに位置づけていた。

 先生の著作は、研究者がとるべき態度を示している。その態度は今日に

おいてこそ、後学の範とならなければならない。先生の著作に限らず、当

時の著作には、そのような態度を示しているものが多い。その頃の深い著

作を、静かに読み返してもらいたい。

 個人的な思い出をしばらく記させていただきたい。『シェイクスピア批評

史研究』は京都あぽろん社から新装版が出ていたが、私はこだわって創元

社刊の初版本を、河原町の赤尾照文堂で買った。代価は私には高すぎたが、

読後に深い幸福感をえた。著作は文体がすべてだが、この本の冷静で端正

な文体に強くひかれた。深瀬さんの文体を好きな人が当時はまだ残ってい

た。私も好きだったが、これから学者として身を立てるには、どちらかと

いえば中西先生の文体のような文体でゆきたいと思った。そうはいっても、

文体は体質だから、それからの私の文体が中西先生の文体になったわけで

はない。吉川幸次郎先生の文体をまねしようとした人は多かったが、一人

として同じ文体にはならなかった。私は中西先生の文体を、自分の文体を

反省するときの鑑にしてゆきたいと思った。

 その頃に初めて、遠くから先生にお目にかかった。学生が学部での専攻

学科を決めるときに参考になるようにと、学部の諸先生方が宇治分校まで

やって来られて、壇上に坐られての顔見世になった。皆さんに強い書斎の

匂いがした。山の匂いがしていた桑原さん今西さんはそこにおられなかっ

た。皆さんがいかにも学者らしい顔をしておられた。同じようにいかにも

学者らしい顔でも、泉井久之助先生は厳しく、伊吹武彦先生は少しやんち

ゃに見えた。中西先生はといえば、なんともいえないいい顔だった。穏や

かな味があった。味がある顔とはこうゆう顔なのかと、むしろ驚いた。京

大の文学部は「哲、史、文」と列されていた。やがて先生に順番がまわっ

てきてなにかをいわれた。記憶は定かでないが、英文学は大人の文学だと

した、ジョンソン博士の説を話されたような気がしている。私は英文科に

行くのを、そのときまでになんとか決めていた。決めたままでいられたの

は、そのとき聞いた中西先生の話がよかったからではなく、同先生の顔が

よかったからだった。あれはガイダンスだったはずだった。司会をされた

田村実造部長は「先生方の謦咳に接してください」といわれた。私はうな

ずいたのを覚えている。「お話をよく伺ってください」とはいわれなかった。

実際、どの先生も準備されたかっちりした話などなさらなかった。ただ顔

を見せに来たという態だった。学生の方もそれで良いと心得ていたと思う。

まだ人間は顔だった時代だった。

 英文科に入って、先生から教わったことははっきりしていた。批判より

も受容を、批評よりも鑑賞をということだった。少しでも作品の上に立っ

て価値判断めいたことをいおうものなら、いかにも不愉快そうなお顔をよ

くされたものだ。ときにははっきりこういわれた――「まず理解すること

だ。理解していないのにはねつけると自分が駄目になる」。こういう先生の

学風は、訓詁をその幹とする京都の学統に適っていた。当時はすでに新し

い批評理論が興りつつあった。しかし私は、流行を追うよりも先生のこう

いう学風を身につける方が先だと信じていた。それでよかったと、今では

なおさらそう思っている。その学風の背後には、初代英文科教授上田敏の

「細心精緻の学風」があった。上田が重んじた鑑賞には、批評理論が目指

していた読み方が実は含まれていた。先生が上田を語るときには真剣にな

られた。上田を継いだ矢野峰人を語るときもそうだった。「学統」というこ

とばを知ったのも先生からだった。

 先生のところにはたくさんの人が訪れていた。休み時間の研究室の前は

順番を待つ人たちの列が出来ていた。就職を頼みに来たたくさんの人が、

先生のお世話で新しい職場に移って行った。品位が高かった先生は人を利

用されなかった。人に利用されておられた。利用されて就職の世話をする

のを、生き甲斐にされていたとお見受けした。仏心としかいいようがなか

った。そのために、あんなに立派な業績を作られた勉強を、犠牲にしてし

まわれたようだった。書きたいと書いておられた『ハムレット』へのコメ

ンタリーも、とうとう書かれずじまいになってしまった。

 京大を去られてから、関西大学が最初の行き先だった。私はそこの立派

な図書館にいまも行っているから駅近くでお会いしたのであろう。研究室

に行かれるのをご一緒させていただいた。文学部の研究棟に行くには、ま

っすぐの道を行って正門をくぐり、直ぐに左に折れて坂を登って行く。と

ころが先生はその道を行かれなかった。正門に向かう道の中ほどから左に

折れて、正門ではない通用門に向うバイパスがある。先生はそのバイパス

に入られた。ごく狭いその道の両側には、びっしり詰まった店舗と民家の

裏側がせまっていて、生活の匂いもしている。その細い道を歩きながら、

その道を行く言い訳をしきりにされた。こちらの方が少しだけ早く行ける

となんどもいわれた。それほど気にされるのならそこを通らなければよか

った。言い訳をしながらも、ご自分の道を行ってしまわれる、強いところ

が先生にはあった。いよいよ研究室に私を導かれて、上機嫌で色々な話を

された。こちらがギクリとした話があった。京大勤務のころ、先生の同僚

がされたあることについて、「あれはしないほうがよかった」といわれた。

「あれ」がどんなことだったかは、はっきりとはここには書けない。それ

は学外での活動で、いかにもその方がなさりたいようなことだった。中西

先生にとっての同僚は私たちにとっては先生に当った。そのお方がなされ

たことを私の前で批判されたのだ。これには驚いた。強い人なのだと、私

は中西先生についての認識を改めたものだ。勉強を犠牲にしてしまわれた

のも、ある種の強さからだったのであろう。味がある、懐かしい人だった

が、本当は強い人だった。気難しい人だった、といっている人もいる。や

はり先生から習った私の同窓がそう呼んでいる。同じ気質をいっているの

であろう。

 関大から甲南大学に移られ、最後に甲南女子大に移られた。最後のころ、

シェイクスピアの『ソネット集』を訳しておられた。そのお仕事も進んで、

訳文を推敲しておられるときに、たまたまお目にかかった。電車のなかだ

った。阪急の京都線で、「長岡天神」と「十三」のあいだを、急行に乗らず

にわざわざ普通に乗られて、車両の隅っこに座って、推敲をしておられた。

そんなところで大事な仕事をされていたのだった。「この頃はこうして普通

に乗るんだ」と、恥ずかしがっておられたが、あれもわが道を行く、強い

人の姿だったのではなかろうか。足を組んでおられた。教室や研究室では

見せられなかったお姿だった。

 翻訳は受容の学が往きついたものだ。壮年時代にはいくつも翻訳をなさ

れた。やっとまた一つ、その仕事にとりかかっておられた。そのころはも

う、就職の世話はしておられなかった。逝かれる直前に、まだ仕事が残っ

ている、今死ねないと漏らされたそうだ。しかし幸いにも、『ソネット集』

の訳はほぼ完成されていた。その訳は版元英宝社の肝いりで美しい背革本

になった。東大の故高松雄一さんものちに『ソネット集』を訳されて、最

初から岩波文庫に入っている。寡黙な高松さんが私に、「あなたのところの

中西信太郎さんのあの訳は見事です」といわれた。背革本にせよこの讃辞

にせよ、生きておられれば快心の笑みをうかべられたであろう。

 中西訳そのものをここで披露させていただく。高松さんが敬服された中

西訳、例えばソネット29番の結び6行はこうなっている――

 

     そんな有様で ほとほとわが身に愛想もつきはてたとき

     たまたま思いが君の上に及べば この身は

     朝はやく ほのぐらい大地から舞いあがる

     ヒバリにも似て 大空たかく喜びの讃歌をうたう

 

     まことに 愛する君を思えば 幸せに心はみちたりて

     王者と身分をとりかえることも わたしは軽蔑したいのだ

 

 「大空たかく」、「喜びの讃歌」、「まことに」、「幸せに心はみちたりて」―

―これらはまことにうまい。「たかく」、「喜びの」、「たりて」は余分に見え

るかもしれない。大空は高いものである。讃歌には喜びがもともと含ま

ている。しかし実は余分ではない。詩の本当の意味を十分に表わしている。

「まことに」も同じだ。「まことに」に対応する単語は原詩にはない。にも

かかわらず、これによって原詩の本当の意味に達している。いかにも作品

を味わうのに長じていた人の訳らしい。達意の訳とはこういう訳なのであ

ろう。このような達意の訳は、中西先生と同じ世代の人々の訳にある程度

共通していた。そのころは訳者に文人が多かった。他方で、中西訳の姿は

端正である。端正なのは、一つには注意深く設けられている空白による―

―「まことに 愛する君を思えば 幸せに心はみちたりて」というように。

達意で端正、これが中西訳を語るであろう。同先生の端正な姿――サッパ

リした服装、背中をまっすぐにして、どちらかといえば足早に歩いておら

れた、いつもの姿が目に浮かんでくる。

 中西信太郎『シェイクスピア ソネット集 完訳』が出たのは1976年だっ

た。その後は新しい訳のお手本になってきた。諸訳を調べているとそれが

分る。それなのに、一般の読者には埋もれたままになっているのが惜しま

れる。先生の翻訳には他にも、ブラッドレーの『シェイクスピアの悲劇』

など数点があるが、『ソネット集』の訳に、先生のあり方がよく反映されて

いる。

 先生の詩の訳は、上田敏に始まっておそらく森亮まで続いた、今も残っ

ているのかもしれない、文人の系譜に属する。

 最後の勤め先だった甲南女子大学の英文科から、昔に追悼文を求められ

た(「学統と仏心と」、「甲南女子大学英文学会会報」1976.9)。短かっ

たのがずっと気になり続けていた。今回やや長いのが書けた。