思索的リアリズムとロマン主義

 

   Evan Gottlieb, Romantic Realities : Speculative

   Realism and British Romanticism (Edinburgh U.P.,

   2016)

 

 

   20074月、ロンドン大学で開かれたワークショップで、Speculative 

Realism (思索的リアリズム、以下SRと略記)と名付けられた研究方

法が取り上げられ、その後かなり広まった。

  本書はSRを紹介しつつ、SRの源はロマン派の詩にあり、

は存在論的に結びつけられると論じるものである。著者自身のさらなる

探究も試みられる。20世紀に流行した新批評、脱構築や新歴史主義が

切り込み損なった分を、21世紀のSRが補う、とも受け取れる。現代の多

くの問題が唯物論的次元のものであることもSR台頭の理由の一つであ

る、という考えが根本にある。M.H.Abramsや Harold Bloom などの

20世紀の著名な批評家たちへの目配りもなされているが、本書に最も

多く名前が挙げられるのは、SRに早くから関わり、2014年に

Onto-Cartographyを上梓したLevi Bryantである。

  構成としては、通常の文学史的な順序でイギリス・ロマン派の5人の

詩人が論じられるが、最初のワーズワスがまず強力にSRと結び付けられ

る。人間と自然の間の調和的関係を確立しようとしていた、と考えられて

きたワーズワスは、本書ではコールリッジに劣らず哲学的であり、「もの」

への関心を抱いていたと説かれる。Lyrical Ballads (1800) の「序」に

「もの」 をまともに受け留めた哲学があり、主体と客体との関係につ

いての理論が展開されている、とされ、この 「序」 こそイギリス・ロマン主

義の試金石なのだと、著者は言う。ワーズワスの初期の詩と散文は、客

体に根差した哲学の先駆であり、後のワーズワスは、宇宙の中心から人

間的なものを取り除こうとした、と言う。そして彼が次第に自然界の中心

に自らを置くようになると、自然は想像力によって翻訳され、道徳的、精

神的に高揚されるのである。

  コールリッジについての第2章は 「自然の哲学と過程の存在論」

題されている。哲学的詩人というイメージを自ら創ったコールリッジは、ド

イツのカントとシェリングに多くを負うているが、そのカント賛美が彼の美

学を生んだ。そして彼の想像力の理論はより高い秩序の存在論となり、

神学的ヴィジョンとなる。一方、その最も過激なヴィジョンは、シェリングの

自然哲学に由来しており、そのことは数篇の会話詩に読み取れるが、コ

ールリッジのバランス感覚は、シェリング一辺倒にはさせなかったのであ

る。(カントが人間の意識と世界との間に裂け目を見たのに対して、シェリ

ングは感覚的、知的連続を見ていた。) SR的読み方では、コールリッジ

の詩の中心は 「非人間的な核」 だ、ということになる。

  第3章のバイロン論には、「Actor-Network-Theory, and Truth

Procedures というタイトルが付けられているが、「俳優ネットワーク」

とは現代の理論家Bruno Latourのバイロン観であり、この章はラトゥー

ルと、もう一人のバイロン研究家Alain Badiouとの二人の意見が紹介

される。著者の見るところ、バイロンが興味を持ったのは「社会」であった。

それでは「社会的」とはどういうことなのかラトゥールの考えでは、自然と

文化の混合、和解であるが、独創的な体系を持つ唯物論者のバディウ

は、過激な政治的関わり見るのである。著者の纏めでは、バイロンの長

詩は、つまりは現代が持つ 「存在の複合的様式」 への道を示している

のだということになる。

   「ニヒリズムと思索的唯物論」と題された第4章では、シェリーの唯物

論への傾斜が先ず語られる。彼とはスピノザ、ベーコン、ロック、ヒューム

などの当時の唯物論的思想家に興味を抱いていたが、彼のヴィジョンを

扱った詩には、唯物論への興味と同時に、物質的なものを超えた存在

への信念がある、と著者は断言する。

  SRの創始者たちにも意見の違いがあり、Ray Brassierは唯物論が

ニヒリズムの基となると考え、Quentin Meillassouxは思索的唯物論で

あると主張しているが、著者はこの違いもシェリーの思考と言葉の持つ二

元性に由来するのだと考える。同じ出発点から違う方向を辿った、という

訳であるが、著者はQueen Mab (1816) を初め、1815-17年に書かれ

た詩から引用をしつつ、他の批評家の意見も紹介、検討しながら、自分

の読み方を見せる。シェリーはニヒリズムへの道をさほど辿ってはいない、

ということである。そしてSR創始者たちの「哲学と科学を結びつけたい」

という願いでは一致している、とすることでSR批評にもなっている。そし

てシェリーは結局ニヒリズムを捨て、偶発的存在論を受け容れた、とする

ことで、著者は 「時間的に」 或いは 「連続的に」 融合させるのである。

   第4章以上に力が入っているのがキーツの第5章である。タイトルは

「生気的唯物論と不活性的存在論」 とあり、本書の流れの終着点でも

あることを暗示している。この章では専ら二人のSR理論家、Jane

BennettLevi Bryantに依存しているが、前者は政治科学者であり、

既出のBryantは存在論を唱え、この章のタイトルFlat Ontology

彼の存在論なのだ。著者のブライアントへの依存度の高さが解るだろう。

   彼の存在論では、客体の諸性質は動きであって、実質的な固有の

存在の活動は、特別の瞬間に現れる。創造とは「もの」の固有の存在が

現実へと動くことである。キーツの ‘Ode to a Nightingale’ について、

脱構築や新歴史主義の批評では、主題と言葉の差異に光をあてていた

が、ブライアントの存在論は、詩人とナイチンゲールの差異をflat にす

る。ナイチンゲールはシンボルではなく、存在しないことによって知られる

(notable) ものなのである。ブライアントの考えでは、我々が客体の実体

(substance) を思い描くのは、永久的な諸性質によるのではなく、その

力による。flat ontology とは、すべての客体は 「同じように」 存在する、

という考えなのである。

   26才という若さで亡くなったキーツは、詩人、思想家として非常に早

く成熟した。著者の考えでは、キーツは詩と理論との結びつきを確かなも

のにした。客体には自律性があり、それに魅せられるのは自然であり、ま

artの力でもあるのだ。

   ‘Ode on a Grecian Urn’ について、以前は 「壺の永久性と語り

手の必滅性との間の緊張を和解させようとした」 と理解されていたが、

最近の批評家は 「和解」 ではなく 「悪化」 であるとされる。著者として

は、全てのものは平等に存在していなくとも、平等なのだ、という存在論

の立場から存在の意味を持たねばならぬという義務から壺を開放するの

が緊急である、とする。

   最終的に著者はブライアントの強力な判断力にも敬意を表し、SR

支持するのである。我々は存在の物質的現実を無視できない。SR

その現実の意味を捉える方法であり、解釈の道具である、という著者の言

葉を読者はどのように受け取るのであろうか。                    

                                    (土屋繁子)

 

言及資料

Levi R. Bryant , Onto-Cartography: An Ontology of Machines

and Media (Speculative Realism)

University of Edinburgh Press, 2014

 

300p. 978-7486-7997-3