庄野潤三とヒュー・ウォルポール

 

  庄野潤三に『ザボンの花』という小説がある。新しい土地に

引っ越してきた若い夫婦と3人の子どもが日々新しい環境に慣

れていく様子を描いた、爽やかな小説である。それは大阪から

東京に越してきて2年目の作者の家族が実際に体験したことに

違いない。そう思わずにはいられないほど描写は細かく、その

場の風や匂いさえ感じることができる。夫婦の危機を描いてき

た庄野が家庭の幸福を描く転機となった作品である。

  庄野は1921年に大阪帝塚山に生まれ、九州大学を卒業し、

大阪の高校の教壇に立ち、大阪の放送会社に入って2年目に東

京支社に転勤した。1953年の秋である。翌54年に「プールサ

イド小景」を書き、55年1月、芥川賞を受賞した。『ザボンの

花』はその年の4月から8月末まで日本経済新聞に連載された。

連載を終えると、庄野は4年勤めた放送会社を辞め、作家生活

に入った。若い作家の志のためだろうか、主に妻と3人の子供

の平凡な日常を描いているのに、『ザボンの花』には生きている

ことの喜びが満ちている。

  2006年出版のみすず書房版の「あとがき」には、大阪にいる

大病をした母に「東京に引越した私たち一家がどんなふうにし

て暮しているかを知らせるつもりで書いた」とある。溌剌とし

た文章の下には母への思いが込められていたのだ。私はそれで

『ザボンの花』は分かったような気になっていた。阪田寛夫の

『庄野潤三ノート』で次の庄野の言葉に出会うまでは。

 

     「ザボンの花」を書く時、私はたとえばこの「ジェレミ

    イとハムレット」でウォルポールが英国の家庭の、部屋の

    中とか廊下などの空気を私たちに感じさせてくれたような

    具合に、私も自分の書くことが出来る範囲で、ある時代の

    ある生活を表現してみようと思った。

 

  恥ずかしい話だが、英文学史やイギリス児童文学の講義をし

ていたのに、Sir Hugh Walpole(1884-1941)の名を聞いたこ

とがなかった。それがここ数年気になっていた。2年前に退職

して時間ができたので、わずかだが彼の著書を読んだ。その結

果、ウォルポールは1920年代から30年代に英米で大変人気が

ある作家だったことが分かった。ヘンリー・ジェイムズやアー

ノルド・ベネットなどが理解者であり、コンラッドは21年に

Hugh Walpole Anthologyに序文を書いている。伝記は友人の

Rupert Hart-DavisによるHugh Walpole: A Biography(1952)、

研究書はElizabeth SteeleによるHugh Walpole(1972)がある。

日本では江戸川乱歩が激賞した「銀の仮面」を含む11作のミ

ステリーを収めた『銀の仮面』(2001)、第一次大戦後の道徳的

腐敗を殺人者を通して描いた長編『暗い広場の上で』(2004)、

百年文庫の『幽』(2011)に収録されている幽霊の話「ラント夫

人」がある。35年の作家生活で50作書いた多作家である。と

ころが第二次大戦後ヴァージニア・ウルフやジョイスなどの新

しい小説が読まれるようになると、伝統的な彼の本は突然読ま

れなくなった。スチールは1972年の研究書の中で、ウォルポ

ールと言うと、若い文学研究者はゴシック小説作家ホレス・ウ

ォルポールのことだと考える、と書いている。(どうやらご先祖

らしい。)おそらく今では、1930年にモームが書いた小説Cakes

and Aleで、才能もないのに30冊も作品を書いて、文壇で高い

地位についている野心家オルロイ・キアのモデルと言われたこ

との方がよく知られているだろう。ウォルポールはその本を読

んで怒り心頭に発し、モームに手紙で抗議した。モームは、あ

れは自分のことを書いたのだと、譲らなかった。

  そんな作家が少年の物語『ジェレミー』三部作、Jeremy

(1919)、Jeremy and Hamlet(1923)、Jeremy at Crale(1927)

を書いた。驚いたことにJeremy and Hamletは1934年に寺西

武夫による解説注解付きで研究社現代英文学叢書として出てい

た。39年に大阪外国語学校英語部に入学した庄野がそれを読ん

でいたとしても不思議ではない。最近では2008年に、長尾輝

彦訳『ジェレミー少年と愛犬ハムレット』が出ている。ところ

が不思議なことに、ミステリー小説の解説も含めて、作者の生

い立ちについて詳しく書いたものがない。長尾訳の「あとがき」

でも作者の履歴はわずか一頁で、しかも最初の方に間違いがある。

 

 この物語の作者ヒュー・ウォルポールは、一八八四年

にニュージーランド・オークランドで生まれた。父親は牧

師であった。五歳の時に父親の転勤とともにイギリスに移

り住み、カンタベリーのキングズ・スクール、次いでダー

ラムのダーラム・スクールに学び、一九〇三年ケンブリッ

ジ大学エマニュエル・カレッジに入学した。(後略)

  一九二四年にはイギリス湖水地方、ダーウェント湖を見

下ろすキャットベルズに邸宅を構え、そこで死ぬまでをす

ごした。

 

  『ジェレミー』三部作は、幼い頃のウォルポールの体験がも

とになっているのだが、それを知ることができる伝記は52年

に出版されたハート-ディヴィスのものだけである。それによる

と、父は22歳でケンブリッジ大学を出てコーンウォールのト

ルロで主教の助手となった。1882年に結婚すると、すぐにニュ

ージーランドに赴任した。そこで84年にウォルポールが、3

年後に妹ドロシアが生まれた。89年に父はニューヨークの神学

校へ赴任した。92年に弟ロバートが生まれた。この年、両親は

ウォルポールをイギリス人として育てることを決心し、翌年夏、

彼をトルロに送り、牧師の息子を教育する学校に入れた。これ

が不幸な10年の始まりであった。

  ウォルポールは家族から引き離されたことで精神的に不安に

なり、生涯、様々な悪夢に悩まされた。翌年、父は彼をマー

ローの寄宿学校に移したが、そこで味わった肉体的、精神的虐め

は生涯忘れられないものだった。30年後に、彼は次のように書

いている。「恐怖―掛け値なしの、むきだしの―恐怖が、まぶた

一つ動かさず、廊下の隅々から見降ろしていた」。「私は惨めだ

った」。「誰でも、人間である限り、ジキルのようにハイドを持

たねばならない。私のハイドはマーローで作られた」。

1896年の夏の終わりに彼はカンタベリーのキングズ・スクー

ルに移った。大聖堂の美しさに魅せられただけでなく、クリス

トファー・マーローやウォルター・ペイターが学んだ学校でサ

ッカレーやブロンテ姉妹の小説を読む喜びを発見した。ところ

が、1898年に父がダラムのベーダ・カレッジの学寮長として帰

国したので、彼はその大学の通学生となった。しかし通学生は

寄宿学校では下に見られていたため、彼は図書館で本を読むこ

とに安らぎを見出した。罪という新たな恐怖を覚えたのはここ

でホーソンの『緋文字』を読んだ時である、と伝記には書かれ

ている。

 しかし、エリザベス・スチールは学校より家庭が問題だった

と考えている。牧師の父は家庭でも完璧な「聖人」であった。

母は耳が悪く、おずおずしていたが、言うことは辛辣であった。

ウォルポールの二面性はこの両親の下で育まれたのだ、と言う。

ウォルポールが善と悪との間で揺れる人間心理に惹かれる作家

でもあることを考えると、傾聴に値する意見である。

 ところが、『ジェレミー』にはその暗さがない。書き始められ

たのはペトログラードである。ウォルポールは1914年、第一

次大戦が始まると少なくとも4度はロシアに行き、赤十字隊で

勤務した、あるいは新聞社のために記事を書いたと言われてい

る。ロンドンに戻ったのは1917年11月である。ペトログラー

ドでの体験はすぐに小説The Dark Forrest(1916)となり、

その後の連合軍での宣伝の経験はThe Secret City(1919)と

なった。伝記では、ペトログラードでの活動の詳細は分からな

いが、ロシア語のレッスンを受けたり、大使館で昼食を取った

りと、生活を楽しんでいたようだと書かれている。『ジェレミー』

が書き始められたのは1916年10月で、完成したのは17年5

月である。「非常に楽に書けた。こんなに楽でよかっただろうか」

と述べている。出版は19年7月であった。批評は概ね好評で

あったが、キャサリン・マンスフィールドだけが否定的で、「‘真

実そして真実だけ’が幼い心から伝わってこない」と書いてい

る。

 二作目の『ジェレミーとハムレット』は1921年7月に書き

始められ、10月半ばに完成し、23年9月に出版された。出版

前に既に1万冊以上が売れたと書かれている。好評だったのは

読者が、細やかな描写を通して自らの幼少時代に浸ることがで

きたからだろう。書きだしの部分を長尾氏の訳で見てみよう。

第一作でコール家に拾われたハムレットは台所の犬に落ちぶれ

ていて、寄宿学校に行っている主人ジェレミーが久しぶりに帰

ってくる日なのに、主人のことをほとんど忘れている。

 

   今、窓のたなの上にすわって、外のいろんな光景を見て

    いるときに、ハムレットが何を考えていたのか、だれにも

    わかりません。荷物を背負ってオレンジ通りをのぼってく

    るマルレディーばあさん。街灯から街灯へ火をもって走り

    まわる点灯夫。丸石をしきつめた石畳の道を苦労しながら

    すすみ、女子高校の横をすぎていくグラインダーじいさん

    のおんぼろ馬車。その馬車をひきながら一歩ごとによろよ

    ろする老いた馬。夕暮れの緑色の空がいつしか夕やみに変

    わってゆく。(後略)

 

 舞台となっているポルチェスターは架空の町だが、19世紀末

のイギリスの町の生活が感じられる。

  庄野潤三が参考にしたのはこのような描写だったのだろうが、

私はそれだけではなかったと思っている。確かに『ジェレミー』

三部作には作者が幼い頃に経験した不安や恐怖を思わせる描写

がある。しかし物語を読むと、むしろそれらを乗り越えよう

とするジェレミーの若い力に引きつけられる。作者は創作の過程

で暗い材料を明るく変えているのだ。庄野はそのことを直観的に

掴んだだろう。それまで夫婦の危機を描いてきた庄野が、『ザ

ボンの花』では家庭の明るい面を描いた。もちろん『庄野潤三

ノート』を書いた阪田はそのことに気づいていた。『ザボンの花』

についての先の引用の前に、「あるデフォルメ――倫理的という

より寧ろ美的な――がここでは行なわれている」と書いている。

  その後、庄野はこの美的なデフォルメを使って、人生を肯定す

る文学を書くようになる。ただ、私には、庄野はもう一つ別

のウォルポールの作品からも多くのことを学んだのではないか

という気がしている。1954年4月1日に西川正身解説注解で

出た研究社小英文叢書の『ウォルポール短編集』Ecstasy &

Other Storiesである。1954年4月と言えば庄野が『ザボンの

花』の連載を始める一年前である。庄野がこの本に言及してい

るエッセイを読んだことがないのだが、『ジェレミーとハムレッ

ト』を熱心に読んだ庄野が、この短編集を知らなかったとは考

えにくい。私は、庄野はその短編集のうちで、ダーウェント湖

を見下ろすコテッジに暮している私と妻、そして二人の息子の

生活を描いた「エクスタシー」を好んだのではないかと思う。

それを味わったことで人生の全てがよかったと言えるほどの恍

惚とした瞬間を味わったことがあるかと聞かれて、成功した作

家である「私」は過去を振り返る。確かに「私」はたくさんの

幸運を味わってきた。しかし至福と言えるのは1つ、多くて2

つか3つである。しかもそれは、他人から見れば些細なことな

のだと言って、結婚5年目のある日のことを語りだす。その細

やかな文章を追っていると、庄野の小説を読んでいるときに感

じる喜びがどこからともなく湧いてくる。

  河崎良二(帝塚山派文学学会代表)