ブラウザーにアメリカ史についてエッセイを連続ご寄稿い

ただいた愛媛大学名誉教授・槻貞夫先生の、一篇一篇が文

字通り珠玉のようなエッセイ二十七編を収めた『渡し場の

詩』(平成十一年)から一篇を転載させていただく。

 

  

人生の渡し場                 槻貞夫

 

 五十年このかた、うろ覚えの外国の詩が心から離れない。どなたか

ご存じの方はあるまいかと始まる文章が新聞の投書欄で私の目を

引いた。その詩とは

 渡し舟に乗って川を越そうとしている老人がいる。何十年か前、

彼は親友と二人でその渡しを渡ったことがあった。周りの風景は今も変

わらぬ中で、老人は記憶の中の亡友の面影を懐かしんでいた。

「着きましたよ」と言う船頭の声でわれにかえった老人は、二人

分の渡し賃を払う。「船頭さん、取っておいてください。お前さんに

はお客は一人としか見えなかったろうが、私は連れと一緒だったつも

りだから」と言って

  投書の主は、これを少年雑誌か何かで読み、大きくなって外国語が

 わかるようになったら読み直そうと思った。が、この詩に会えないま

 ま、子を失い友を失うこと多く、老来ますます会いたい気持ちが募っ

 てくる、というのである。

  その時、私は中学教師になって三年目、初めて三年生の担任になっ

 て張り切っていた。クラスでこの投書を読んだところ、皆で手分けし

 て探そう、ということになった。学校の図書室、市立図書館、自宅の

 書棚などの訳詩集を探したが、無駄だった。

 それからしばらくして、一冊の本が世に出た。著者は先の投書の主。

「人生の渡し場」と題するその本から私が知ったのは

 投書に対して多くの反響があり、著者はついに求める詩「渡し場」

(ドイツ浪漫派詩人ウーラント作)に再会したこと。詩の全文。著者

 は大学教授(経済学)で、東大生の愛息がある日突然、父の目の前で

 動脈を切って自殺したこと、であった。さらに、著者が物事に丁寧で、

 ユーモアと気骨を併せ持つ個性あふれるひとであることも、収録され

 ている学園・学生などを語った文章から分かった。

  これらのことをクラスの生徒たちにも話した私は、著者に手紙を書

 いた。生徒と詩を探したがお役に立てなかったこと、私もその年

 に弟を亡くしたこと。そして、ご子息のご冥福を生徒とともにおいのり

 します、と書き添えた。

  すると、美しい文字で書かれた長文の返書をもらった。詩探しに

 対するお礼、亡弟へのお悔やみと私への励まし、「生徒のみなさんへ

 よろしく」とあり、最後に、ご自身の出身校、第一高等学校(現東京

 大)寮歌の第四節が書かれてあった

 

  橄欖かほる丘を去り

  山の都とへだつれば

  かたみに面は知らねども

  同じ思いの通うかな        (一九九九・三・二七)