知のネットワーク・京都学派

 

桜井正一郎『京都学派 酔故伝』(京都大学学術出版会2017

 

  

 

 京都学派とは、20世紀の初めに、哲学者西田幾多郎、田

辺元を祖として始まり、戦後までに哲学(第1期)から東

洋学(第2期)へと拡がって行った、京都大学をベースに

したグループであり、著者桜井氏はこれを(竹田篤司によ

る定義を受け継いで)「知的ネットワーク」と呼ぶ。(因み

に上田閑照は「文化の多様性を自覚した『個』の共同体」

と表現している。)著者はこの学派の人脈を辿り、その知

的作業を紹介し、京都学派の伝統であるという「人物列伝」

の手法を用いて学者たちの人物像を描き出し、読者を「酔

わせる」が、英文学者である桜井氏の真の目的は、実は、

この京都学派に文学研究者も入る、と主張することにある。

 

 そこで本書の構成は年代順ではなく、まず著者お勧めの

文学研究の分野に入る上田敏、深瀬基寛、そしてライバル

的な自然科学者の今西錦司を取り上げ、どの学問にも共通

する学風「実事求是」を紹介する。京都学派は仲良しクラ

ブではなく、西田を始め、続く学者達も、批判を受け止め、

そこから独自の思想を展開する力を持っていたことで大

きな存在となった。

 次に第2期の創始者、吉川幸次郎、桑原武夫などが論じ

られ、彼らの特徴として、ヨコ社会、教養主義、独自性と

いう三つが挙げられる。このヨコ社会では「酒」が潤滑油

であった、とされるが、著者の考える京都学派のキーワー

ドは、「実事求是」と「酒」なのである。本書のタイトル

の「酔故伝」は、「水滸伝」をもじりつつ、著者が京都学

派における「酒」の機能に注目していることを示している

のだ。

 そして第2章の人物伝で取り上げられるのが著者の選

択による文学関係の6人である。深瀬基寛(英文学)、大

山定一(独文学)、古田亮(筑摩書房創始者)、富士正晴(文

士)、高橋和巳(中国文学)、小岸昭(改宗ユダヤ教徒研究)

に関して桜井氏の魅力的な語りが展開される。京都学派の

第2期が終わった後に富士と高橋が残り、最年少の小岸は

残照の中にあった、という流れである。その後に登場する

のは、草創期に遡って、当時の「三傑」、原勝郎、九鬼周

造、青木正児であり、彼らの京都と結びついた生きざまが

描かれる。いわば本書の構成はサンドイッチのようなもの

 

で、著者の思いは挟まれた中身にある。おそらくそのせい

で、そもそもの元祖である西田幾多郎についての纏まった

人物伝は描かれていないので、彼の哲学そのものに興味の

ある向きには少々期待外れかもしれないが、随所に散りば

められた彼への言及を拾って西田像を浮かび上がらせる、

という楽しみ方もあるだろう。

 

 京都学派のキーワードとされる「実事求是」は、実事に

よって意味を求める、ということで、西田が用いた語であ

り、彼の場合、特に「求是」の方に重点を置いていた、と

される。この「実事求是」が東洋学者たちの学風ともなり、

更に各学科にも拡がる。興味深いのは、英文学の場合、当

時英米で大いに流行した「ニュー・クリティシズム」と重

なることである。中国文学者の吉川幸次郎は、ニュー・ク

リティシズムより自分たちの方が早い、と言ったそうだが、

日本と海外の批評の動向が和していることで、一般的に20

世紀は「批評の時代」だとされるのも納得してしまう。し

かし注意しなければならないのは、ニュー・クリティシズ

ムも「実事求是」も「方法論」だということである。ロマ

ン主義、古典主義、モダニズム、といった、思潮を表す用

語とは異なる。思うに、京都学派は「求是」に力を注いだ

西田が思考の対象を重視したことから逸れて、時とともに

「方法論」重視に移行し始めたことで、内なる力を失い始

めたのではないだろうか。英米のニュー・クリティシズム

も、やがて「脱構築」に発展したり、従来の歴史的、社会

的批評を再評価したり、揺れ動きながら影を薄くして行っ

たが、静止的な、或いは恒久的な方法論など、現代では存

在しないのであろう。著者は、京都学派の第2期は社会の

変動によって終了した、と述べているが、「実事求是」自

体にも衰退の要因があったのではないか、とも思われる。

そのあたりについての著者の考えを知りたかった。

 

 著者が力を込めて論じている6人は、年齢順に並んでい

るが、おそらく深瀬は英文学者である故に、高橋は年齢が

近いが故に、二人を論じる著者の筆に特に力が入っている。

京大の英文科に関しては、著者はそもそもの英文科の開祖

である上田敏にかなり筆を割いていて、上田の説いた「細

心精緻」と西田の「実事求是」を結びつけ、上田こそが現

代批評理論の先駆者である、と述べる。京大英文科には、

更に「社会への貢献」を考える学風がある、と著者は述べ

ているが、この説は、(酒飲みであることともに)エリオ

ットやオーデンを日本に紹介した深瀬を京都学派の徒と

見做したい著者の思いを感じさせる。深瀬はエリオットを

自分の内側として捉えていたので、「実事求是」に当ては

まるかどうか、意見の分かれるところであろう。

 6人の人物論の後ろに、草創期に遡って、三傑と呼ばれ

る原、九鬼、青木を置いて結びとしたことで、「桜井版」

の京都学派の枠組みが完成する。本著によって京都学派の

何たるかを次の世代に知って貰い、それを活かし貰いたい、

という著者の願いは熱い。著者自身も、京大学派の落とし

子として、読むことに特化した研究会やセミナーを主宰し

ているとのことである。

 しかし京大出身の文化人類学者であり、人間文化研究所

の所長である立本成文氏による「あとがき」は、著者の思

いに対してやや冷ややかである。本著の価値を認めた上で、

立本氏が説くのは、「人間らしさを求める『人文知』は情

報社会では軽んじられがちだが、文化というものは絶えず

変化して、しかも到達点を持たないものであるのだから、

『人文知』によって価値を創造することが必要なのだ」と

いうことであり、「学風を語ることによって、精神の灯を

伝え、絶えず新しい灯を創らせることを期待している」と

結ばれる。知識を受け取るだけではなく、更なる創造が期

待されるのだ。              

 

 

 

***

 

 

 

 著者が最も書きたかったであろう、6人についての「人

物像」は、それぞれ魅力的で、当時の京都の町のイメージ

までも浮かび上がらせ、実際の京都を知っている者を懐か

しがらせる。著者は京都学派の「場」である京都大学の重

要性にも勿論触れていて、「外」を見る目を持っていた西

田も、京大にいたからこそ海外の情報を知ることが出来た、

と述べているが、京都の町との繋がりも強調する。京大は

町人の大学だ、と定義づけ、京都に出版社があったことの

利点も見逃してはいない。

 

 しかし空襲で焼けることのなかった京都、京都大学にも

戦争の影響は、学者たちの戦争論を超えて、存在していた

のではなかったか。私は昭和34年(1959年)に東京大学

の修士課程を終えて京大の博士課程に編入学した者だが、

当時、同学年で都立高校から憧れをもって京大哲学科に入

学した女子学生がいたりしたので、京都学派の残り火があ

るのを知っていたものの、英文科は無縁だと思っていた。

戦後の大学内の動向に気を取られていたせいもある。本書

で深瀬先生との絡みで名前が挙げられている御輿先生は、

陸軍大尉として南方から復員なさっており、夫人は被爆者

である。先生の内なる「厳しさ」は、その体験と無関係で

はあるまい。そのようなナマの戦争体験を持つ学者は、他

にいなかっただろう。

 また、戦争によって、英文学者になったかもしれない多                  くの若者たちの命が失われたことを我々は忘れてはなら                   ない。東大の場合、英文科の卒業生は、昭和19年には15

人、20年は9人、21年は2人、22年は5人、23年19人

である。京大の場合、昭和17年は0、18年は1人、19年

は3人、20年は2人、21年は0、22年は1人、23年は3

人。24年からは両大学とも(新制となった結果として)女

子の卒業生が出ている。東大大学院では、新制の1,2回

生たちが、戦争による空白を埋めるかのように、自由な試

みの発表の場として「エッセイズ」という同人誌を発行し

始めて注目を集めた。しかし京大にはそのような動きはな

かった。人数が少なかったということもあるだろう。優秀

な人がいなかった訳ではない。ひところ「東の高橋、西の

川崎」と謳われた川崎寿彦氏は京大出身であるが、名古屋

大学の教員となった。京大出身者で集まる、とか、纏まる、

という気風が薄れたように思われる。京大の新任人事にも

他大学出身者も候補となることが普通であって、その点は

オープンになったと言えるだろう。かつての京都学派の

纏まり」は、もはや現実的ではなくなったのである。

 

 私が京大の博士課程に入った時、最初に驚かされたのは、

演習で先生のお話に意見を述べようとしたところ、隣にい

た先輩に「やめろ」と袖を引っ張られたことである。東大

での活発な演習とは大違いであった。次第に新旧取り混ぜ

ていろいろな現象を抱えていることが分かって来たが、ヨ

コ社会ならぬタテ関係を気にする学生がかなりいたのに

対して、先生方はかなり自由で、学外の学者との交流も活

発で、東大よりもオープンな感じであった。御輿先生は京

大出身だが、高橋康也氏をはじめ東大の「エッセイズ」の

連中と親しく、高橋氏の名著といわれる評論集『エクスタ

シーの系譜』が京都の英文学関係の出版社であるあぽろん

社から出版されたのは、他ならぬ御輿先生のお蔭である。

神戸での日本英文学会大会で御輿先生が記念講演をなさ

ったとき、終了後自然発生的に「飲み会」に集まったのは、

京大出身者よりも東大出身者の方が多かった。また工藤好

美先生は、院生の独創的な修士論文を他大学の専門家に回

して読ませる(コピイが普及する前の話である)というこ

とをなさった。それは学界に刺激を与えると同時に、若手

の登用を呼び掛けることでもあった。

 

 戦後の京都大学の環境の変化は、女子学生の扱いにも表

れていて、「町人の大学」である京大では、共学になって

からも、かなりの期間、女子学生は(東京から哲学科を目

指して来た学生のように)京都市内よりも京都の外から来

る者が多かった。町人の家庭では、娘たちは優秀であって

 

も京大へ行かせて貰えないのである。東京よりも強い伝統

的意識のなせる業であった。京都市内の高校から入学した

女子学生は、医者や学者の娘たちばかりである。高橋和巳

氏の夫人である、作家のたか子氏のエッセイを読むと、京

大の仏文科で学ぶことの誇らしさと、女子であるが故に蒙

る不当な扱いへの苛立ちが混じりあっていて、当時の京都

大学における女子学生の環境を映している。

 

 しかし、50年あまり経った今、京大英文科の学科長は、

優秀な英語学者である女性である。このことは今の京都大

学が誇っていいことではないだろうか。京都学派以降、京

大の学問は下り坂になった面もあるだろうが、「独自」の

成長を遂げて、新しい「灯」を掲げているのではないだろ

うか。

 

 だからこそ、今、桜井氏のこの本も書かれるべくして書

かれたのだ、と言いたい。

                        土屋 繁子