21世紀のT..エリオット

 

Jayme Stayer (ed.) T. S. Eliot, France, and the Mind of Europe.

Cambridge Scholars Publishing, 2015

 

 T.S.エリオット協会が2011年にパリで開いた学会がきっか

けとなって、本書が誕生したそうである。協会員の3分の2

が北米、その他はイギリス、そしてフランスなどヨーロッパ

大陸、或いはアジアの大学に所属しているということで、各

論文の執筆者もヴァラエティに富んでいる。

 タイトルに見るように、本書は従来のエリオット研究に於

ける定番のフランスとの関わりについて更に深く追求する第

1部(9篇)と、ヨーロッパとの関わりを広く考察する第2

部(5篇)とから成り立っている。編者が序文で述べている

言葉を借りれば、「エリオットが最初に出会ったヨーロッパ人

はダンテであり、そのことが歴史的感覚と結びついて詩人自

身の心(mind)となる」というのが本書の編集の究極の筋立

てであろう。

 フランスのラフォルグへのエリオットの傾倒はよく知られ

ているが、彼は後にコルビエールの方がラフォルグより上で

あると思ったのだ、とエリオットをフランスの後期象徴主義

のコンテキストに入れて考えるのが第1章である。世界は意

図性を意識してつくられているとエリオットは考えている、

として劇作家ベケットとの関連が考えられるのが新しい視点

であろうか。エリオットのThe Confidential Clerkとベケッ

トのWaiting for Godot が比較される一方で、エリオットの

The Elder Statesman が終わったところからベケットの

Krapp’s Last Tape が始まる、とされる。

第2章ではベルグソン的世界でのエリオットが考察される

が、エリオットの ベルグソンへの興味は宗教的先入観が関

わっていると見る。初期の‘Rhapsody on a Windy Night’

にベルグソン的要素があるかどうか、3人の識者の意見が紹

介される。これは比較文学の領域だという人もいるだろう。

 エリオットの初期の詩は後の心理学者たちの意見を先取り

している、というのが「理念と現実の間」と題された第3章

である。それを「超意識」と名付けているが、更なる高いレ

ベルへの統一の道が、皮肉にも断片化してしまっている、と

いうのが論者の意見である。目に見える断片化とは、意味の

崩壊の証拠であり、エリオットの初期の詩の多くには到達す

べき目標がない。しかし、この断片化と疎外感とがエリオッ

トの直観と洞察力に結びつく、と述べられる。

 パリが‘The Love Song of J. Alfred Prufrock’ に与えた影

響を論じる第4章では、1910年秋にパリに渡ったエリオット

がラフォルグとボードレールの影響を受けたという従来の定

説に加えて、当時のパリの風俗、文化が主人公プルフロック

を生んだのだ、とし、ダンテの「地獄篇」からのエピグラフ

も、エリオットにパリ時代があってこそのものだ、と説く。

「プルフロックの恋歌」の分裂的構造は、上から下までのパ

リの雰囲気の影響だ、ということになる。

 更なるパリの文化の衝撃的影響について論じるのが第5章

だが、エリオットにとって、フランスは哲学よりも詩の地で

あった、と述べられる。その彼のパリでの経験が、語り手と

聞き手との関係への関心を生み、プルフロックの「貴方と私」

になった、と説かれる。

 新しいアプローチとして、カミングスが登場するのが第6

章。これまで一緒に論じられたことのなかったカミングスの

コンテキストにエリオットを組み入れる試みである。カミン

グスはエリオットの詩と批評に接近し、エリオットのパリの

詩を自分流に書き換えたこともあったが、エリオットとは違

って、彼にとって伝統とはテクニックの源であったのだ。最

終的にエリオットはカミングスの技巧を褒めるに至った、と

いうのが面白い。エリオットが1940年に復活したのは、カミ

ングスの見解に負うところ大だそうである。

 第7章ではエリオットの詩に現れる「空気」(air)が主題で

ある。`Portrait of a Lady’での煙や、‘Gerontion’での風など、

彼の詩に潜んでいる空気は大抵の場合、悪臭である、と指摘

される。悪い空気は「原罪」と結びつく。その流れでFour

Quartets でのAir が取り上げられるが、論者がバシュラー

ルとの関連を指摘しているのが目を惹く。これも比較文学的

アプローチである。

 続いて第8章ではフランスの前衛的映像作家エプシュタイ

ンが、エリオットとともに原始的な感受性に照応している、

として取り上げられる。現代詩を難しくしているのは知性の

みならず、直接的感覚に依存しているせいであり、それはモ

ダニズムによって生み出されたものだ、とされるが、エプシ

ュタインが知性は芸術の創造の障害になるという(グルモン

から受け継いだ)考えを支持しているのに対し、エリオット

は批判した、という。

イタリアの未来主義や、フランスの前衛主義などと広く関

わったエリオットに、あまり知られていないペギーというフ

ランスの詩人・編集者との交流があった、という新しい情報

が第9章に登場する。ペギーはエリオットにフランス語を教

えたそうだが、政治的美学に関わり、ベルグソンから哲学的

影響を受け、ジッドに認められた、という人物である。論者

はエリオットのMurder in the Cathedral をペギーとの関

連で政治的抵抗とも受け取れると考え、これが彼の反抗的時

代の最後を飾った、としている。

 このあたりがフランスと関連する最近のエリオット論の裾

野であろうが、第2部のヨーロッパ関連の論文の数の方が少

ないのも尤もである。第2部最初の第10章は理論面でのエリ

オットに正面から取り組んでいて、「エリオットは学者であ

るよりもエッセイストであり、抽象的思考に欠けている」と

いうサイードの批判に論者は反対する立場である。批評の流

れとして、エリオットの批評的エッセイは、批評に対する矛

盾を孕む抵抗を伝えており、英米文学批評の「脱構築」の先

駆と言えなくもない、と論者は位置づける。またラカンはエ

リオットと理論との関係について、複雑でダイナミックだ、

と評したが、若い時にエリオットの詩を仏訳しようとしてお

り、また後には自分のセミナーでエリオットのハムレット論

に言及していたそうである。論者は更に「哲学は詩的想像力

の反映であると規定されるべきではない」というデリダの考

えを引いているが、これが本論の核心なのであろう。

 第11章は1924年に始まったエリオットのラジオ放送が彼

の詩に与えた影響について述べたもので、現代的な新しい視

点を見せている。かの盲目のミルトンの経験に重ねて聴覚的

想像力が考察される。韻文が散文に近づき、読むことと書く

こととの壁が取り払われのがラジオ放送なのである。エリオ

ットが第二のミルトン論を書いたのも、この経験があっての

ことであった。

 スペンサーとウェルズへの批判が「歴史を持たぬ人々」と

題された第12章であり、その批判とは革命史批判である。

スペンサーとウェルズがダーウィンの進化論に基いた社会科

学的理論を説いているのが、エリオットとしては、キリスト

教的見地からも受け入れられない。Four Quartets の2番目

の‘Dry Salvages’ の中で「いかに歴史を見るべきか」とい

う基本的問題が提起されるのも、スペンサーとウェルズを頭

においてのことである。エリオットにとって、歴史とは回帰

なのだ。

 第13章でミュアとエリオットを比較しているのも、新しい

試みである。エリオット論というよりも、ミュア擁護論のよ

うな趣きがあるが、エリオットのフランスに対して、ミュア

はドイツとの関わりが深い。その試金石はゲーテとヘルダー

リンであり、カフカを最初に英訳したのもミュアである。ス

コットランド生まれの彼はニーチェを学ぶためにドイツに渡

った。彼にとっては、時代と戦うのが立派な作家であるのだ

が、エリオットの詩にはそういう戦いは見られない、と彼は

思ったのだ。が、後にThe Waste Landを偉大な詩と見るよ

うになり、更に`Burnt Norton’をエリオット最上の詩である

と考えるに至る。この詩には思考とイメージの強烈な集中が

あり、エリオットは、ここでエリザベス朝の影響から脱して

ヨーロッパの心に近づいた、とミュアは見るのである。やが

て二人は交流をもつようになり、ミュアの死後出版の選詩集

の序をエリオットが書いている。1950年代に核戦争の脅威に

ついて書いたのはミュアが最初であった。論者にとって、ミ

ュアはエリオットと並ぶ存在なのである。

 最終の第14章は本書の纏めでもあり、エリオットの位置づ

けが総括される。エリオットがフランスの象徴主義的詩人た

ちを見出した1908年以前に、ヨーロッパの作家たちは既に象

徴主義への信頼を失っていた。つまりエリオットは象徴主義

(フランス)から表現主義(ドイツ)へと移る時期に詩人と

なったのである。プルフロックがコスモポリタンであるのも

偶然ではない。エリオットはこの時期に詩人であったが故に、

個々の国家を考えるよりも、ヨーロッパという包括的イメー

ジを抱くことになったのだ、と結ばれる。

一般に詩人や作家についての研究、批評は、手近な直接的

資料を深く探る、という方向と、周りの世界との関連につい

て研究対象を拡げていくという方向とに発展して行くが、本

書はそういう様相の21世紀版の見本のように編まれている。

しかしエリオットについてある程度知っている者にとっては

刺激的であろうが、殆ど知識のない者にはエリオットの全体

像は把握し難いに違いない。一般に学会が関わっている論文

集とはこういうものなのであろう。

 とはいえ、研究論文集ともに、入門書も発行する学会もあ

るようで、それは、その作家、詩人を愛するが故に研究に携

わる一方で、読者をふやし、その作家や詩人の魅力を知らし

めたい、という思いを示しているのであろう。

さて、21 世紀になってもエリオットは愛され続けているの

かどうか・・・

                         土屋 繁子