文化圏を超える詩学

 

Ranjan Ghosh, Transcultural Poetics and the

Concept of the Poet: From Philip Sidney to

T.S.Eliot  ( Routledge, 2017 )

 

本著はRoutledgeの学際的文学研究シリーズの一つ。しかし

「学際」というよりも「他文化」との比較という態の詩論で

ある。タイトルに‘transcultural’とあり、文中のキーワード

が‘trans-habit’であるように、‘trans’(超える、横断する)

という接頭語が著者の視点を表している。

 Habitとは「習慣」と訳されるが、個人的であると同時に

集合的な心の働きであり、著者の念頭にあるのは、カーライ

ルの‘Habit is the deeper law of human nature.’という言葉

である。副題にあるように、シドニーからT.S.エリオットま

での詩人・詩論家が論じられており、そこにギリシャ、ロー

マの詩論から、イタリア、ドイツ、フランス、更にインド、

中国、イスラムなどの詩論が織り込まれているが、本命はイ

ンドの詩学であることが後半に明らかになる。著者がインド

の大学で英文学を講じていることが認識され、本書の独自性

が納得出来ることになる。

 ‘Trans-habit’ という著者のこだわる用語について第一章で

述べられるが、「内なるぶらぶら歩きを見たり、したりする

こと」だ、とする緩やかな定義に始まり、エリオットの「カ

ントは生涯をカテゴリーの追求に費やした」という文の「カ

テゴリー」を定めることが「習慣」に至るのであり、‘trans-

habit’ は改変されたカテゴリーを包含する、という定義など

が並ぶ。その‘trans-habit’ が仏教、ヒンズー教で tarka と

呼ばれるものに由来する、というのが著者の見解であり、タ

ゴールの生の継続性、和解と矛盾の過程についての考えが紹

介される。インドに軸足を置く著者ならではの指摘であろう。

 第二章では「詩」「詩人」とは何か、が考察される。5世

紀には、歌を作る人と、歌う人とは別人でが、イギリスでは

ルネッサンス期のシドニー(1554–81) が書く人であり。コス

モポリタンであった、として、著者の詩人論が始まる。詩に

は歴史が含まれ、歴史学の言葉と詩人の感受性とは共働する、

と考えるシドニーにとって、経験の積み重ねである「歴史」

や「習慣」は一つに結ばれるのである。「詩は模倣の技」と

いう彼の考えも、そこに含まれる。

 他文化の詩学との比較として、イタリアのタッソー(1344–

95) の「全ての詩は喜ばせることで役立つ」という考えや、

イスラムの詩学の「嘘つきとしての詩人」「詩人は誠実さだ

けで判断されるべきではない」などという考えが紹介される。

そのなかで大きな対比として、古代ギリシアのアリストテレ

ス(384–322BC)の「自然に勝つために自然と争う」という

現実的な考えと、シドニーの「自分の素材を理想化しよう」

という意図が並べられる。

 詩を読む人がいなければ詩は成り立たない、として、第三

章では論が展開される。ローマのホラティウス(65–5BC)

は少数の読者で満足していたそうだが、英文学史としては、

まずベン・ジョンソン(1573?–1637)が読者と交渉しなが

ら敵対してしまうという態度が語られる。これは昔の中国の

読者とテキストとの関係にも通じることで、‘trans-habit’の

図が展開される。孟子(372?–89?)の意図主義と孔子(551–479

BC)の道徳観の他、古代インドのバラモン教の詩篇Rig Veda 

では自己の外の実体(entity)との強烈な一致が考えられてい

ると紹介される。他者への興味は自己犠牲を含むというので

ある。

 B.ジョンソンの場合、読者に求めるのは判断力と鋭い感受

性であり、そのための「教育」の必要性が説かれる。詩人は

読者によって生き残り、読者は理解によって詩人を活かす、

と著者は言う。

 第四章では「習慣」の複雑な面を反映した詩人たちが扱わ

れる。17世紀のイギリス美学を支配していたシャフツベリ

(1671–1713)が目指したのは、内なる感覚と記憶によって

本来の正当な基準を得ることであった。詩人の心は神の心に

準えられ、詩人は第二の創造主となる。

 次に取り上げられるドライデン(1631–1700)は、タッソ

ーに近いとされる。彼は思考と言葉を分かち難いものと考え

た。多様性を排して全体の美を保つことは「習慣」の在り方

に関わる。ドライデンにとって、技を持たぬ詩人は詩人では

ないのである。そして次のポープ(1688–1744)にとって、

想像とは火であり、歓喜であった。ポープはホメロスの発明

工夫の才を強調して、それを想像力だとした、と著者は述べ

るだけで、第七章で再びその名が現れるときには、ドライデ

ンとともに彼等の批評は詩論ではない、と切り捨てられてい

る。

 著者の意見では、サミュエル・ジョンソン(1709–84)は

至福と技を結びつけるのが詩人であると考えているが、想像

力をさほど評価していない。想像力とは「みだらで放浪する

能力」であり、「知識なしでは役に立たない」のである。

 この時代の背景には科学の進歩があり、人々の自然の法則

への興味を増大させたことが良くもあり、悪くもあったのだ。

当時のイギリスの美学者に比べると、フランスの美学者たち

は異なった認識を持っていたとして、著者は百科全書派のデ

ィドロ(1713–84)に言及する。「想像力」という語を用いた

彼にとって、詩人とは、天才により霊感を与えられた存在で

あるが、理性を重要視していない訳ではない。一方、イギリ

スのジョンソンは美を経験主義と結び付け、かのシャフツベ

リは道徳感を美を見る人の属性とする。

 第五章のタイトルは‘Fearful Symmetry’である。ノースロ

ップ・フライのブレイク論に同じタイトルがあるので、ブレ

イク論かと思われそうだが、これはコールリッジ論である。

詩人の心は内なる不一致から新しい全体を創るために自己を

溶かそうとする、その過程を標題が表している。安泰ではな

いシンメトリイから創造性が生まれるというのである。しか

しコールリッジは創造性についての体系的哲学を生み出して

はいない。彼の審美的思考には曲がりくねる特徴がある、と

著者は言う。この章で比較されるのは、内省的判断は想像力

に根ざしていると考えたカント(1774–1804)などだが、「詩

篇」にヘブライの詩人という理想像を見るのが興味深い。

 第六章では「ヒーローとしての詩人」カーライル(1775–

1881)が語られる。彼は解釈がいかに言語、文化、思想の衝

撃によって生産的になりうるか、を論じたが、その彼と対比

的な存在としてインドの哲学者Ghose(1872–1958)を引き

合いに出す。しかし両者は同じ標準で括れる、とされ、詩と

いうものが一つの宗教のようなもの、と述べられる。神の考

えを解釈すべく決められた人が「ヒーローとしての詩人」だ、

というのが両者に共通する考えだという。そういう詩人は有

限のもののなかに無限への道を見出す。この両者は「未来の

詩」を始めた、と著者の目は未来にも向けられる。

 アーノルド(1822–88)とインドの賢人を結びつけるのが

第七章である。異なる文明世界も今や大きな連邦とされるべ

き、というのが著者の主張であり、アーノルドの詩学とサン

スクリット詩学のパラダイムを同化させている。解り易く言

えば、詩はいつも喜びを与える、というのがタゴールとアー

ノルドの共通点なのである。著者にとって、本章が最も書き

たかったところであったのであろう。

 最終章はT.S.エリオット(1888–1965)であり、伝統を認識

し、歴史的感覚を持っていたために‘trans’の渦中にいた彼

も、作品が生まれ出るまでの過程についての組織的理論を纏

めようとはしなかった、と著者は批判的である。とはいえ、

「伝統と個人の才能」のなかには‘trans-habit’の種子があ

るとし、批評家が文学の過去を見直して新しい秩序に並び替

えるのが望ましいというエリオットの再調整の勧めに著者の

自負との重なりを感じている。同時代のフランスのヴァレリ

ーと比較して、エリオットの詩人は触媒だが、ヴァレリーの

詩人はフィルムが展開される暗室だとする。

 最近盛んになって来たエリオット批判が紹介されるが、エ

リオットの触媒の比喩に違和感がある、というような感覚的

な批判や、彼の考え方はベルグソンの二番煎じだ、というよ

うな独創性批判とがある。またエリオットの想像力はワーズ

ワスよりもコールリッジに近い、という色分けもなされてい

て、彼の評価がまだ定まっていないことが感じられる。

 全体として、本書は比較詩学という趣きだが、単なる比較

のように見えながら、著者の因果関係探索の意図も垣間見え

るところが興味深い。アーノルドをインドの賢者と結びつけ

たところがその果実であり、著者の立場からの主張である。

彼の批判に見られるのは「体系的理論になっていない」とい

うものだが、著者の目標の一つがまさしく体系的理論であっ

たのであろう。巻末の文献目録に挙げられた400冊余りの本

には、ごく最近の出版書も含まれており、著者の並々ならぬ

努力を示している。

                                        土屋 繁子