コールリッジのpain という苦しみ

 

 S.T.Coleridge (1772-1834) の思索家としての評価は大いに高まって来ているが、彼の詩の方は、残念ながら、思索と最後まで共存共栄という訳には行かなかったように見える。

かし彼の思索は、彼の詩作体験についての考察を基盤にしており、その詩はpainを抜きにしては語れない。

 若い時に書かれた三篇の傑作と言われる詩‘The Rime of the Ancient Mariner’ (1797), Christabel’(1797), Kubla Khan’ (1798)のなかで、完結したのは最初の「老水夫行」のみで、あとは未完のまま、ということが、既に詩人の内なる問題を垣間見せているように思われる。

1995年に彼の未発表の詩が300点も見つかったそうだが、「老水夫行」の異版は100以上、「クリスタベル」も25の異版があるということである。(「クブラ・カーン」は執筆中の来客によってコールリ

ッジの霊感が断ち切られ、未完に終った、とされている。)

 1803年に彼は‘The Pains of Sleep’という詩を書いたが、前年までの多作とは違い、この年に書かれた詩はこの一篇のみである。

それ以降、短詩や未完の断片詩が増えているので、この一篇が彼の詩人としての道の頂点であろう。ちなみに彼が「私のなかの<詩人>は死んでしまった」とゴドウイン宛ての手紙に書いたのは、1801年の3月である。

 このpainという言葉は、彼の詩作においては(後の理論のキーワードである)fancy imaginationに次ぐ重みのあるものではなかったか。最初は何気なく書かれたものの、fancyとの絡みで次第に重みを増して行ったのであろう。fancyという語が学生の時に課題として書かれた`Dura Novis’ (1789)に初めて用いられた時、既にpain もそこにあった。その時には互いに絡んではいないが、翌年に書かれた`Pain’と題するソネットでは、painは大文字で始まる存在となり`Tyrant Painとも呼ばれ、painから逃れるためにfancyがある、という図式が見える。ここではpain は「苦しみ」というよりも「痛み」というニュアンスであろう。「空想」と「痛み」とは、時系列、或いは因果関係で捉えられ、その意味するものも少しずつ変化して行くのである。このソネットでは、pangs anguish という名詞も使われていて、painはそれらを纏める言葉であり、また、内に生まれるというよりも、外側から来るものであった。

 同じ1790年に書かれた‘Monody on a Tea-Kettle’という40行の詩では、空想上の「やかん」が「もう一つのpain」の哀悼歌を歌うことを詩神に願っており、またfancyが動詞として用いられている。その他、この年に書かれた詩にはpain fancyが幾つも現れるが、弟宛ての手紙に添えられた‘A Mathematical Problem’と題する詩に、初めてimagina-tion という語が用いられた。

「理性がそれにふさわしい楽園で楽しんでいる間に、想像力は物寂しい砂漠をやるせなく旅している」と歌われており、数学に於いては、理性に対するのは「空想」よりも「想像力」だ、と感じたのであろう。

 「空想」については、同年の‘Happiness’で、自分が空想上の目標に向かうのを妨害するのが「理性」だとされる。そこに彼はpain を感じたのであろうか。painvain が韻を踏んでいるのも興味深い。

翌年秋に書かれた‘An Effusion at Evening’では、「空想」「想像力」「痛み」の三つが出会う。

pain plainplain main pain vainという押韻があり、深読みをすれば、pain の行く末を暗示しているかのような(或いは詩人の願望のような)韻である。

「想像力」は「愛」のmistressである、と定義づけられる一方で、「希望」それ自体が「痛み」について私の知っている全てだ、と断言されるが、「空想」はこの時どこにあるのであろう。

もし「希望」と「痛み」の間に「空想」を感じさせようとしているとしたら、この詩は「空想」論のはしりである。そしてpainは「痛み」というよりは「苦しみ」になっている。

 この頃から1794年にかけて、「空想」と「苦しみ」を含む多くの詩が書かれたが、特に彼が結婚した1794年は多作の年であった。その流れで「老水夫行」「クリスタベル」「クブラ・カーン」が生まれるが、「老水夫行」は物語自体が「苦しみ」の物語であり、罪と罰の物語である。嵐の海の船上で信天翁を射殺したことで呪われた老水夫は、月光を浴びた海蛇の美しさを祝福することで呪いを解かれるが、陸上で、婚礼の宴に赴く途中の若者に自分の経験を話す、という枠組みも罰に属する。物語の主題は、painそのものだと言えるだろう。

 「クリスタベル」はゴシックの恐怖物語になる筈であった

が、未完に終わったことで幻想性が高まった。これこそ「空想」の世界である。クリスタベルは深夜、森の中で出征中の婚約者のために祈っていて、美しいジェラルディンをみつけ、城に連れ帰る。この二人にも、クリスタベルの父親レオライン卿にもpain という語が割り振られている。

 翌年に書かれた、未完の「クブラ・カーン」では、クビライの歓楽宮が完成し、アルフ河が流れ、立派な庭園の光景が語られ、詩人がかつてヴィジョンで見た、楽器のダルシマーを抱えて歌うエチオピアの乙女が描かれるが、クブラ・カーンは戦争を予言する祖先の声を聞く。

「苦しみ」がありそうな不吉な雰囲気を漂わせて物語は断ち切られる。語られ損なった部分の謎は重い。

 興味深いことに、この頃のコールリッジは、一方でフラン革命後の国際情勢や政治など、公的な大きい主題の詩に取り組んでいる。

The Destiny of Nations’(1796),France: An Ode’(1798), Fears in Solitude’(1798)などがそういう作品であるが、「空想」とはいわば逆方向にある。こうした戦争の怖れや社会の悪といった外なる大きな主題の下では、大げさな言い回しも用いられるが、「苦しみ・痛み」のムードはあ

る。楽しくはない現実を反映しているからである。

「諸国民の運命」には、「空想」の力についての定義がはめ込められており、anguishpangagony などの苦痛を表す語も使われている。

また「孤独の怖れ」でのfearspains に相当するのであろう。

 もう一つ注目したいのは、この頃、彼がホメロス、ヴェルギリウスなどのギリシアの詩人や、カトウルスなどのローマの詩人の作品、そして彼とほぼ同時代のドイツの詩を翻訳したり、模倣したりして「勉強」をしていたことである。「空、想」に頼らない詩作の方法を探っていたのだとも言えよう。

この頃(1797年)彼はワーズワス兄妹と知り合っているが、彼等に宛てた‘Hexameter’という、タイトル通りの六歩格で書いた詩がある。彼がワーズワスを「わが師、わが友」或いは「わが頭、わが心」などと呼んで、ワーズワスから学び、頼りにしていることが分かる。古典、外国文学とともにワーズワスからも学んでいたのである。

彼は特にワーズワスの詩に「想像力」の働きを見て、自身を客観的に眺めるようになった。自らの「空想」が詩を紡ぐ力を失い始めたとき、(それは「苦しみ」から逃れる術を失うことでもあったので)代りに「想像力」に力を発揮させるべきであると、感じもしたであろう。詩人の内なる「空想」の力の減退が、主題を広げ、方法も変化させることとなった。それを自ら客観的に考察出来る能力を持っていた彼は、評論を書くようになり、やがて1817 年にBiographia Literaria を出版するのも、必然的結果である。

1802年に書かれた‘Dejection: An Ode’では詩人自らが「空想」の喪失を自覚している。この頃から実生活で健康を損ね、アヘンを使用することで、余計に「苦しみ」を自らの内に抱え込むこととなっていた。

この詩では、昔は「空想」が幸せを見せてくれていたのが、今は「苦しみ」が詩人をおとしめ、

「想像力」を危うくする、と歌われる。dull painとか agony affrightなどの表現が見える。

 そして翌年に分岐点である「眠りの苦しみ」が書かれる。

かつては眠りは喜ばしいものであり、「空想」に支配されて楽しかった夢も、今では詩人を苦しめるものとなってしまった。それはアヘンのせいでもあり、苦痛とアヘンが罪の意識で繋がって、底知れぬ内なる地獄となっているのだ。

この状況を描くのに、以前の平穏な状態を描いた第一スタンザに対して、「しかし」と第二スタンザが受け、「そこで」と第三スタンザに発展するのは、手本のような論理的構造であり、彼の「勉強」の賜物でもあろう。

これは彼の「苦しみ」の物語なのである。

自分は受け身なのか、能動的であるのかも判らず、全ては罪であり、悔恨であるとしても、それが自分のものか、他人のものなのか、さえも判別出来ないという状態で第三夜を迎えると、彼は自分の大きな叫び声によってで悪夢から目覚める。そしてこのような罰は、罪に深く染まった幾つもの自然のせいなのだ、と受け止める。

 後に彼はこの「眠りの苦しみ」を「クリスタベル」と「クブラ・カーン」とともに纏めて出版しているが、この詩を「苦しみと病気の夢」と呼んで、「クブラ・カーン」とは対照的なものだと書いている。しかし、果たして全く対照的であると言えるのかどうか。

この詩の最後で、詩人は「何故このような悲しみが自分に降りかかるのか?と問うて、

 

 To be loved is all I need,

  And whom I love, I love indeed.

 

という、まるで恋愛詩のような2行で詩を結ぶのだが、「苦痛」に対するこの強力な異議申し立ては、「クブラ・カーン」が完成していれば、あったかもしれないものである。ただ、「クブラ・カーン」と異なるのは、painが今や「苦痛」「苦悶」「激痛」であって、この2行が神への訴えにも受け取れ

ることである。その後の彼の宗教への接近の前奏曲かもしれないのだ。

 この後、彼の詩作は短詩や未完成の断片を多く残すこととなった。「空想」「苦しみ」は以前ほど現れない。「苦痛」の齎した自らの詩作体験を分析し、作品を生む「空想」と「想像力」との違いを考察したのが1817年に出版された『文学的自叙伝』である。

13,14章が想像力論であり、第1722章にワーズワス論があるのは、第一義的に詩人であるコール

リッジならではのことである。

ちなみにこの書では、「想像力」という語の方が「空想」という語よりも使われる数が多い。思索家としての発展と詩人としての苦しみ(pain)を反映しているように思われる。

                     (土屋 繁子)