「竹越与三郎と伊藤痴遊」

 

昔の戦争で勝敗が明らかになると、緊急時に徴募し、雇った兵士をどう解雇すべきか、が戦後処理の重要部分として政治家の大きな課題になった。下級指揮官が兵士と共に高級将校や司令官、政治家に反抗する、あるいは下級兵士が上官の制止を無視して政府に楯つく場合もある。兵士に未払いの給与や解雇手当を渡して、穏やかに郷里に帰す、元の職業に復帰させる、という難しい役目に政治家や官僚は直面する。近頃はあまり聞くこともなくなった「復員」の大事業である。

 

竹越与三郎(1865-1950)は『格朗穵』と題するおそらく日本初の Oliver Cromwell 伝の「編集者」で、十七世紀の英国革命、王政復古の歴史を彼は当時としてはかなりよく知っていたらしい。彼の著書『新日本史(上)』(西田毅 校注、岩波文庫、2005)のなかで、「武人の手より権力を奪う」、「解兵の議」の小見出しのもとにある文章はかねて私の気になる箇所であった。鳥羽伏見の戦い、奥羽同盟の鎮圧が討幕派勝利に終り、「已に天下の大勢を察するや」、新体制のもとでの政治権力を目指す者たち、「廟堂の上に周旋する大臣」にとっては、今や軍人兵士は危険な存在と感じられた。これが「武人」対「政治家」の対立で、後者は前者をいかに解体、解兵するか、を真剣に考えはじめる。竹越のことばによると、

「これ実に政権(が)、武人の手を離れて、実務的政治家の手に渡るの過渡にてありき。」(p. 141

政権安定を求める政治家の狙いは、京都近辺に「群衆する虎狼の兵卒を解きて国に帰らしめ、以て武人の手足を削るにあり」という。処理を間違えると、兵士たちは一転して矛先を自分たちに向けるのではないか、との政治家の不安があったのである。「ここに至っていよいよ解兵の急務を感じたり」(竹越、141-42頁)とあるように、事態が切迫してきた。竹越は、後漢の光武帝が「武将を帰らしめたるがごとく、プレスビテリヤン党がクロムウェルの鉄騎を帰さんとしたるがごとし」 と、東西の例を引いて説明している。ジョン・ドライデンが十七世紀後半の騒乱をフランス史の諸派対立の先例、かれの用語では パラレル、を活用して語ったことに似ている。とはいうものの、全員解雇にするのもまた危険である。

 

「一旦無事の日とならば、天下を乱すものは必ずこの輩にあらんこと照々として明なり。然れども全くこれを解くは、政府自らその力を削るに均しければ、その雄才なるものを余して朝廷の用を為さしめ、武人の権を両断せんとし、四月十九日ここに陸軍編成の端を開けり。」(竹越、142 頁)

 

「プレスビアン党」と「鉄騎」の例を挙げたからには、英国の王政復古前夜のジョージ・モンク将軍が指揮する陸軍の軍事力とその行使、ラムプ議会とシティ・オヴ・ロンドンの微妙な力関係を竹越は意識していただろう。王政復古で大手柄を立てたモンク将軍を英国の復古新政権が軍部の「雄才なるもの」と見て、彼に格別の厚遇を与えたのである。大事なときに方向転換したモンクのその後の評判は芳しくなく、その妻が悪妻だったことも有名で、サミュエル・ピープスの『日記』にそのエピソードが出ている。政治的任命で海軍司令官になったモンクが、軍艦の操舵で「前へ進め」と陸軍式の号令を発した話をピープスは笑いを噛み殺して記す。しかし、一時的にせよ、モンク将軍が「その雄才なるもの」だったことは間違いない。この事実から私は、日本のモンクは誰か、と想像してみる。竹越の明治維新の叙述に出没する日本の政治家、「廟堂の上に周旋する」人物は、英国王政復古の或る政治家を意識して形成されたのでは、との憶測である。確たる証拠がないので、憶測としか言えない。

 

チャールズ二世の政権が次第に固まってゆく過程で、のちに海軍官房長相当の高官に出世したピープスも、海軍の整備と解兵という正反対の仕事で大いに苦労した。オランダとの戦争の気配が濃くなると、軍艦整備、弾薬・糧食の買い入れと積み込み、水兵の募集の業務などに彼は精励する。精励というより、追い回されるというのが実情だった。その前段として、必要な戦費の確保のためシティの銀行家たちを歴訪して融資の交渉、懇願をする。従来の Goldsmith の「雄才たるもの」が Banker に発展する時代、つまり Goldsmith-banker の時代である。国庫の窮乏をよく知る海軍出入りの御用商人たちは、いまや現金払いでなければ必需品を納めてくれない。海戦が終わって講和となればなったで、水兵の解雇も同様に苦労の種であり、未払い給与や僅かばかりの解雇手当を支払う政府の金策にピープスは日夜奔走せねばならない。水兵の妻たちが海軍事務局に押しかけ、時には事務局の職員が殴られる、という状況がピープスの『日記』に複数回にわたり記されている。現金がないと、「ティケット」と称する金券で支払う窮余の策も採用されたが、これを高利で現金化する金貸しが現れる、という具合であった。ティケット発行を担当する本元の海軍事務局の職員が、役職を利用してティケットで高利貸まがいの行為を行った形跡さえある。解雇された水兵がとりあえず泊まる宿屋の主人が、ティケット割引きを副業にする話もある。海軍事務局による現金化が遅れて、ティケットを抱え込んだ宿の主人が追い込まれて自殺する、という事件も起こった。ティケットを紛失した、何とかしてくれ、とピープスに泣きつく婦人もいる。この人はピープスも遠縁に当たり、やむなく彼は地位を利用して換金の便宜を図ってやった。このときは、彼のいう「殿様」のサニッジ伯爵に善処を頼み込んだようで、海軍事務局の組織や雰囲気を推測することができる。

日本の幕末・明治維新でも似たような現象があったかも知れないが、『新日本史』にはそこまでの記事はない。ただ、過激な攘夷派だった者が一転して開国派に転向し出世する話はある。竹越の叙述にも様々の感慨が読み取れるが、やや意地の悪い伊藤痴遊のことばのほうがこの際は明快でさっぱりしている。伊藤痴遊 (18671938) は明治後期から昭和初年にかけて政談講釈、政治評論を得意とした人で、一時は政治家にもなった。彼の往時回顧の文章は次のとおりである。文中の「今日」とは 1930 年、昭和五年のことである。太平洋戦争と敗戦をいくらか経験した筆者としては、様々なことを考えさせる文章である。

「今日の時世から考えて、攘夷などといふ事は、とても、解釈のつく可き、問題ではない。併し、その時代に於いては、攘夷論なるものが、時代思想の、唯一であった、といへる訳で、苟くも大小を帯す者にして、攘夷の意見を、有って居ない者は無かった位である。[改行]仮令、開国の意見を、有って居た者でも、世間を憚って、それといへず、攘夷論には、引摺られて居た傾きがあった位であるから、明治の世に、生き残って、所謂、名士なるものの多くが,何れも、攘夷論の為に、浮身をして居た、人々である、といふ事を思ふて、其人達が、明治になって、唱えていた説を、聞いて見る、と、無限の興味を覚える。」

伊藤痴遊:『幕末側面史』(伊藤痴遊全集 続、第一巻、平凡社、昭和五年)、101 頁(「安藤對馬守」の章。フリガナ省略、文章の一部書き換えあり。) おわり

 

                    (岡 照雄)